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掌編小説「僕と鬼と」

「私ね、昔、人を殺しかけたことがあるんですよ」
 居酒屋のカウンターで隣り合わせた男が、ふいに話しかけてきた。
「はあ。人を……」
 ハイボール二杯を空けてすでに酔いの回っていた僕は、ぼんやりと返事をした。冷めかけた唐揚げをかじりつつ、男の顔を見やる。
「ええ。もう、二十年も前になるかな……」
 独り言のように、しかし僕の耳にはきちんと届くように呟く男は、五十代半ばか、もう六十を越えているか。日に焼けた顔と半ば以上白くなった頭髪との対比が目につく。
 普段なら外で一人で飲んだりはしない。が、今日は一仕事やり終えた後、どうしても酒が飲みたくなり、目についた店に入った。見知らぬ人から話しかけられるのもいつもは迷惑に感じるほうだが、何となく拒む気になれない。
「ちょうど今の季節でしたよ。寒くて凍えそうな二月の夜……アパートの部屋で、冷たい布団にくるまって寝っ転がってた。目を閉じて寝ようとしても、寝付かれない。腹が立ってしょうがないことがあったんです。そのうち、どうにも我慢ができなくなって……」
 男は、くいっとお猪口をあおる。濃い酒の香が漂ってきた。
「起き上がって、台所にあった包丁をひっつかんだ。そこらにあったタオルでそいつをくるんで、ジャンパーの下に隠して飛び出した。あいつだけはどうしても許せない、殺してやるって、もうそれしか考えてなかった」
「どうしても許せない……それは、どんな相手?」 
 僕の問いかけに、そのあたりは勘弁してください、と男は片手で拝むしぐさをした。
「そいつの家を目指して、こう、早足でね。夜遅くのことだから、道には誰もいなかった。いや、もし人の姿があったとしても目に入ってなかったでしょうね。それぐらい頭に血が上ってた。なのに、ふっと聞こえてきたんですよ」
「聞こえてきた……?」
「ええ。鬼はー外、福はー内ってね」
 鬼は外。福は内。
 その声は店内の喧騒を突き抜け、鋭く僕の耳を打った。
「節分の夜だったんだな、そんなもん全く意識していなかったけれど。小さい子どもの声でね。鬼はー外、ってもう一回聞こえてきて、おしまい。でもその声のおかげで足が止まってた。あ、自分は今、鬼の顔になってるな……って、はっと気付いたんですよ」
 あごを手でさすりながら、男は言う。今は温和な顔つきをしている。その時は、どんな顔をしていたのだろう。
「急に、憑きものが落ちたような感じになってね。家に引き返しました。台所に包丁を置いた時、芯からほっとしましたよ。ああ、人殺しにならずにすんだ……って」
「それは良かったですね」
 僕は心の底からそう思い、相槌を打った。
「私はどうも、カッとしやすい性格で。それからも、くそっあの野郎、などと思ってしまうことが何度かあったけれど、鬼はー外、と心の中で呟くと、不思議と冷静になれて。おかげで、大それたことをしでかさずにここまでこれました」
 男はお猪口を空けて、カウンターの上の伝票をつかんだ。僕の分まで。
「だからね、おにいさんも。何かあったら、鬼はー外。唱えてみるといいですよ」
 自分で払いますよ、と引き止めたが、いや、余計なおしゃべりをして邪魔してしまったお詫びに、と男は僕の肩を軽く叩き、去って行った。
 冷めきって硬くなった唐揚げを箸で転がしながら、思う。
 あの男はなぜ、あんな話をしたのだろう……自分と似たものを、僕に嗅ぎつけたのだろうか。 
 大したものだ、と感心する。
 そう、足元に置いてある鞄の中には、タオルでくるまれた包丁が入っている。先ほどの話と同じように。
 一つだけ違うのは――その包丁が、すでに真っ赤に染まってしまっていること。 
 今日、どうしても許せない奴を刺してきた。それはどんな相手だったのかと問われたら、そのあたりは勘弁してくれ、と僕も答えるほかないけれど。
「鬼は外……か」
 呟いてみるけれど、もう遅い。
 僕は、鬼になってしまった。

(了)

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