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✴︎ 言葉を解く

(長いです、家庭や支配にまつわる内容を含みます。)

 青信号が点滅する横断歩道を父親の後を駆ける。幼稚園に通っていた頃の記憶。
間一髪で向こう側へ辿り着いた矢先「ついてくんじゃねえよ」と怒鳴られた。どうしたらよかったのだろうと考えた。
母親は私たち2人を外に出かけに出すけれど、私は気が気でなかった、父親の気分の浮き沈みは読めないから。そのようなことは日常的に何度もあった。

今でも、
新たな環境や、初対面の人と知り合うことに自分が思う以上に緊張したり、勝手に不安が募っていく。体が硬直して思うように振る舞えなくなっていく。
私があらゆる人間関係に対して心配せざるを得ない、
私に理解できない理由で一方的に拒絶されること、
とかそんなこと起こるはずないってわかっていても、拭いきることが難しい。
そのことがいつも人付き合いの根本にあって、私の主体性を萎縮させる。

依存しているとかではないのに、相手に突き放されることに自分として対処することに自信を持つことができない、無力を感じる、ひどく落ち込む、落ち込んだら自分は持ち直すことができなくなって、いろいろなことを続けることが難しくなる……
新しい出会いに、漠然とそこまで想像しなければならなくなる。これはある種の呪いだと思った。

 私は相手に働きかけることができるし、自分が思うことを言うことができて、聞いてもらうことができる。言葉をもらうことができる。
他者と思うように折り合うことができないことに、自分の方だけに原因があったように感じて反省し過ぎることや、深く落ち込むことは、呪いに書き込まれていてさせられているような感覚がある。
私は無力で、私の声は届かない、通じない、聞き入れてもらうことができない、他者との軋轢や齟齬を前にそのことに振り返らせたり立ち止まらせたり、話を聞いてもらうことはできない、と思わせる呪い、これは支配だと思った。それは私だけでなく、家族ごとかかっている呪いなのかもしれない。
気づいたら気づいたで不甲斐なく情けない。私も無意識だったし、無意識であるがゆえに、行動規範と心理の根底にあるがために、本人にとっての当たり前よりも深いところ、「選ぶ」ということ以前の「せざるをえない」ところにあるために、止むことなく伝播していた。
とにかく目の前の親しい人の怒りや疑いに向き合うことが怖くて、それは、そういった場面で私は自分の主体性や能動性を発揮することができないと思い込んでいたからだった。
人と真摯に向き合いたいと思うなら、たがうことが起こらないなんてありえないし、あらかじめ避けたりできることではない。
ようやくそうやってリアリティを持って冷静に考え始めることができる。
漠然とした、「かもしれない」を恐れて、不安や緊張を募らせるより、現実的に私はどうしたいか、から考えるとよいのだろうと思えるようになった。
持ち直せなくなるほどに沈み込んだりしない、その安全性は確保した上で人と付き合っていけばいい。

 人と多く出会っていけば、他者を支配しようとしたり、呪いの言葉でがんじがらめにしようとする人はいるのだと思う。でももしそういうことがあっても、その言葉や振る舞いを恐れる私は当然で、それはおかしい、って思えるし、言うことができる。
そのような人や声かけに出会っても、そこから去ったらいい、って ああ、それでいいんだ、と思えた。
でもなるべく、互いが通じないことで無力を感じたくも、感じさせたくも、無力感に打ちのめされることも互いの間に生じさせたくない。
成す術なく私の元を去って行ってしまうことがありありと想像できるから、怖く、悲しく、寂しい。

自分の言葉が、意志が通じていかないこと、あるいはそう学習させられることは本当に恐ろしいことだと思った。
このことを理解するまでに、いろいろに情報収集が必要だった、権威性、力関係、社会構造、ジェンダー、抑圧、加害/被害、認知の歪み、閉鎖的な家庭の問題。二元論や傾向などの大きな声でなく、個別具体的な声に耳を傾けることにすごく助けられた。

それらは複雑に絡まりあっていて、私の中にもこんがらがっていて、
解けた部分がいくつもあって、これで周囲の人と話すことは自分にとって随分と気楽なことになる、と思いながらも、自分のコミュニケーションの取り方を改めなければならないな、とも思ってる。ここからもう一度始めなきゃいけなくなっている。

けれど、緊張と不安の理由を自分で解くことができたことでまず、人前で楽に振る舞うことができると思える。それが嬉しい。


ブブさんがリツイートしていたツイート、腑に落ちた
 「自分の体を大切にしない、という男性ジェンダーバイアスがあります。
  クタクタになるまで、クタクタになってもなっても働くのが美徳。
  そしてそれを支えるのが女性の役目、ということになっています。
  いろんなことの歪みって、ここから生まれているのでは?」

一次と二次
男/女で分けられ印象付けられている面もあるけれど、
それよりも、現行の社会で比較的問題なく働いていくことができる人と、何らかの障害が生じて自分で工夫をせざるを得ない人で分かれているようにも感じられる。それでは困る。


心ずっしりしたり、ふわふわして足が地に着かなかったり。
それでもまずは「自分はどうしたいか」を時間がかかっても自分の中に確かめて、そう相手にも伝えることができれば、一時、ふう、と安心できる。

私と関わる人に知っていてほしいけれど、重くとらえて欲しいわけじゃなくて、私もそこにとらわれたくないし、身軽でいるための言葉だから。
私が持っている身軽さと、これまでに自分に確かめたずっしり重くいざるを得ない感じが、これから段々と自分の中に混じって溶けて、
適切に自分の外に出ていけるようになるとよいなあと思ってる。

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