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✴︎ とはいえ、

2022年11月1日のとはいえ、
✴︎話すことのつづきです。

とはいえ、
言わないかと思えば言い過ぎる。言えなかった分、飛び出た言葉に二言三言分の勢いや気持ちが篭ったり、久しぶりに表れた言葉を相手に言った後に、もう一度自分のために言い確かめたり、私が相手に言葉を伝えることの周辺は慌ただしい。ずっとブレーキとアクセルを踏み間違えているような感じで、疲れる。

毎回毎回、話す前から言葉が詰まる時間がその先に待ち構えている。
予測してスピードを落として安全に着地させたり、言葉を相槌や表情に置き換えたりしてる。
おしゃべりは好き。人が話しているのを聞くのも好き。
すらすらと歌うように言葉を連ねる人の声を聞いているのは憧れもあってか快い。

少なからずみんなそうだよ、ってことよりはもう少し切実で、僅かな違いだからこそ見えにくくて、自分でも掴みづらい。

知られると、知られているで緊張したり、どんなに待っても言葉は頭も出さなかったりして、自分が自分の仲介をしている感じ。

けれど、
話せなさについて自分の言葉で伝えようとする中で、
自分を隅から隅まで説明するための言葉に自分を合わせなくていい、
言葉の方に自分を合わせなくていい、
と思えたことはいいことだった。


つくった瘡蓋わざわざ剥がさなくていい、
傷口は触らなければ案外ぽろっと取れたりするのかもしれない。

いつも真剣でいたいとか、はぐらかしたくないとか、厳しくありたいとか、そういう自己意識は、異なる切実さを生きる誰かを不用意に傷つける可能性があると思って。
直接的なメディア報道に、過去の経験や被害、トラウマをフラッシュバックする人がいるように、
私の言葉はもしかしたらそういうものになるかもしれないから、
最後には、自分が頼りにした本や映画を添えた。
そういうことが自分の言葉に対して生まれた、厳しく苦しいだけの言葉は自分以外にはいらないから。

夢の中で、自分のことを誰かにたくさん話した。

できる/できない では決められない、
いつもいつも

その両面、もしくは立体、であれば球、それら隣り合うしゃぼん玉

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