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・今日の周辺 2023年 積んだ本に寄りかかりながら

○ 今日の周辺
仕事の帰り、乗り換えで10分だけ乗った電車がボックス席を備えた車両で、窓際に座る。桟に頬杖をついて旅行の帰りだと錯覚してみる。この疲れもいい具合に思えてくる。普通に疲れた。
師走の、年末の、雰囲気が苦手。どこにいっても人は忙しなく気が休まるときがない。様々なコミュニケーションのやり取り、キャッチボールは何倍速かにしたみたいに落ち着きがなくてまごまごしている間に目の前に起こっていたことは過ぎ去っていて、ただもう用の無いボールを持ったままの自分が静止しているところではっとする。そんなことが自分に蓄積していって体も心も重くなっていく。疲れてるのだと思う。それで、仕事を残して定時で上がってきた、そんな日の帰り。


○ 積んだ本に寄りかかりながら

去年は読んだ本を紹介することができたけど、今年は積んでいる本も一緒に紹介。
下半期はそもそも業務量が多かったり、そんななかで後輩ができたりして、気持ちが慌ただしくって、どうしても仕方がなく本から手が離れていった半年だった。それでも新刊や、関心と隣り合っている本をチェックすることはしていて、ブクログ(読書管理アプリ)に「読みたい」本がデータとしても積まれている。

人と資源や自然環境との関わりについての関心は続いている。
大江健三郎は、岩川ありさ『物語とトラウマ:クィア・フェミニズム批評の可能性』から、ブレイクは中見真理『柳宗悦 「複合の美」の思想』から関心を持った作家だけれど、大江健三郎が『あたらしい人よ目覚めよ』のなかでブレイクの預言詩を引用していることを知って、新たに関心を持った枝の先がさらに繋がっていることに驚きがあって面白いし楽しい。
小田原のどか・山本浩貴 編『この国の芸術』と井奥陽子『近代美学入門』、四方幸子『エコゾフィック・アート』は年明けに閉店してしまう地元の書店で買ったもの。どれも楽しみに読む本、思い入れのある書店で買ったことも読書体験の一部になる。

読み書きをすることと、職場で仕事をすることの折り合いがなかなかつかないでいる、週5日の労働を頑張りすぎているのかもしれないのだけど。もちろん、仕事から日常へのいい影響もあって。
美術館の図書室でたくさんの図録のページをめくって眺めることが、自分の普段の仕事のためになることはすごく嬉しいし何か誇らしい。
仕事のせいで自分がやりたいことができていない、とは思いたくない、今はいろいろなことを会社という組織に委任しなければ働き続けることが難しいから仕方がないって側面が大きい。だけれど会社の組織構造やワークフローに関して意見することは遠慮しない。
やりたいことが多いと時間配分が難しいし、疲れや体力との折り合いをつけていくことが後回しになりやすくて、ふとしたときに疲れを感じる前に体の電源が切れる。それでようやくセルフマネジメント不能だったことに気がついて、いくつもの意味でしんどさを感じざるを得ないときがある。

点滅社さんのnoteに書いてあってこと、共感する。
「無理をしないのが大事なのですが、しかし無理をしない生き方をすると、おそらくぼくのような人間は社会で生き残ることができず、結局死ぬ気がしています ある程度無理をしないと、どうしても生きのびることができない。」(12月20日の投稿より)

生きることに対する力の入り方と、その後でどっとやってくる疲れのどうしようもなさ、よくわかる。
読んだ本についてはまたあらためて取り上げたい。

本に関連して。
年明けに閉店予定だった地元の書店が、後続の会社に場所を渡すことで書店自体はその場所にあり続けることになった。仕事納めの朝、電車の中でその報告を目にして涙ぐんだ。すぐに誰かと共有したかった。
この街では願ったことが人々の行動によって、そうしていろいろな偶然も関与しながら、結実する、やっぱり希望を持ち続けよう、諦めずにいよう、って思えることの根拠が自分が暮らしている場所と人々にある、なんて心強いことだろう。


○ あれこれ
NHKドラマ「デフヴォイス 法廷の手話通訳士」観る。
手話が「流行り」として当事者から一掃されるシーンは前編の冒頭にあったけれど、私が手話を羨ましく思うのは、まずその言語が特定のマイノリティのための言語としてあって、そのなかでは非当事者の介入をなしにして当事者同士が打ち明け合うということが多く起こっているように思われる、手話を使うときはその世界が守られているように感じられるとき。この認識はおそらくすごく客体化した視点であって、適切でないということ、わかる。「守られている」ということは「閉ざされている」ということと隣り合ってもいるから。

「Codaは通訳をして当たり前」
ろうのコミュニティの中でもヒエラルキーというか、当たり前のものとしての役割分業があるのだ、ということを知る。しかもかなり強く押しつけられているということも。映画『わたしだけ聴こえる』でCodaのティーンたちがCodaのコミュニティで彼らが抱える鬱積した気持ちを共有できることの快さに羽を伸ばし、家庭に戻れば家族に頼りにされることの充足感を超えて自分の気持ちが後回しになるという挫かれや燃え尽きがある、ということに蓋をしなければならないというシーンが、Codaを取り囲む現状としてぴたりと重なる。
また、「日本手話」と「日本語対応手話」の二分だけによらない、「懐かしい手話」と言われた手話の情緒的な側面が人の心を開き、気持ちを引き出すということが描かれていたことにも発見があった。

耳が聞こえないということによって重なるマイノリティ性、時代性による制限、手話を使うことや筆談、日常的でない言葉の意味をとること、周囲とのコミュニケーションをとることが難しいということで活動が行き詰まる。
教育、就労、福祉から、二次的な問題、虐待、心的外傷、犯罪、優生思想、様々なトピックが取り上げられた。
前後編を観終えて、結局健常者男性中心の視点や都合に物語の支点が回収されてしまうのは、現行の社会の「リアル」だろうか。扱おうと思うなら、DVを受けた女性や子どもが、注意を受けたにもかかわらず加害者と会ってしまったことや、虐待の被害を受けたことが大勢の前で他者によってアウティングされた状況など、もう少し丁寧に扱われるべきだと思った。もし本筋との関わりが薄いのであれば、ここで取り上げなくともよかったトピックもあったのではないか。

北村紗衣『批評の教室』で取り上げられていた、複数の作品に対してのジェンダーバイアス測定のために用いられる「ベクデル・テスト」の3つの基準(①フィクション作品のなかに、最低でも2名の女性が登場するか、②女性同士の会話はあるか、③その会話の中で男性に関する話題以外が出てくるか)を思い出す。これは男女だけでない、あらゆるフィクションで扱われるマイノリティに対する先入観に当てはめることができるように思う。
マイノリティ性に重点を置いた物語はまだまだ前例が少ないだけにあれがこれがと過不足が感じられるのだと思う。これからより多くの物語が描かれることでひとつの物語が扱うトピックが選定され、それぞれの物語が描けることを深く追求し、結果として全体で広がりを持つことができるようになるといいなと思う。

映画『Coda あいのうた』についての感想はこちらに書いています。




読む。この企画は荻上チキさんの提案によって実現したらしい。

20代から50代まで幅広い世代が同じ業務に向き合って仕事をしている職場で目の当たりにする現状に、このインタビュー記事に書かれる内容はよく重なる。
いじめは加害者の歪んだ一方的な親しみ、距離感の誤りによって生じている。また、そのような「憂さ晴らし」は一瞬の快楽であり、被害者にとっては不本意なかたちで「抑圧移譲」の受け皿になること、そのことに抗うことができなかったという無力感により長期的な苦痛を抱えることになる。そのことの非対称性について意識されるべきだと思う。また、その対象は自分に損害がなければ誰でもよく、その結果、立場の弱い人が選ばれやすく、連鎖する。
これは加害者が所属するコミュニティや立場の責務の過重によるプレッシャーやキャパシティオーバーに起因しているのではないかと思う。「憂さ晴らし」ありきの立場の保持や任務遂行の常態化は自身の器量に合わない責務から得られる権威の保持による破綻ということができると考える。いじめが横行する現場における不適当な仕事配分や従業員の不足が起因していると認識されることはあまりないように感じるけどどうだろう。

いじめの抑制には 、“Active-Bystander” =「行動する傍観者」の存在も重要である、と指摘される。
加害者はいつも「お前は味方か敵か」と加害を通して周囲に問うてくる。加害者の問いに対して正面からYES/NOの二元で答えることをせずに保留する、ということが結果的にそのような構造に「NO」を示すことになることもある。

私は職場の現状に、自分に対して憂さ晴らしを達成させない、ということを努め続けている。どうしてこんなことに気力を費やさなければならないのかと思うし、毎回そのことに対応することは骨の折れることで、そのような態度を貫くことは結果的にその人と根気強く付き合っていく、ということになる。
まずは自分を守ることが最優先だけれど、それでもできる限りあなたと向き合い続けるよ、と同調せずに示そうとすることが長期的な意味で有効性を持つのではないかと考えている。

便宜的にでなく、公正な立場であろうとする他者が、当人の本音や理解を引き出すためにインタビューを企画する、ということ、加害者にレッテルを貼ったままに「諸悪の根源」、「悪人化」して排斥することよりも遥かに必要で効果的であるように思われる。二元に回収できないものをも「是」でなければ、この社会から排斥、排除する、という態度をとった多くのメディアや現状は許容範囲が狭すぎやしなかったか、とこのインタビューを読んで、思わされる。


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成人してから1番よく会って長く付き合ったと思える友人がパートナーとお店を持つことを目標に地方に拠点を移すことになり、その前に会おうということになった。
ここ最近のことと、これからについて伝え合うことができてよかった、お互いいろんなところでの仕事や人間関係を経験してきてその度によく話し合ったから、様々思うことがある。アルバイトで接客業をすること、会社に勤めること、フリーで活動すること、自分でお店を持つこと、どんなふうならいいんだろう、って答えは出ない。けれどそんな話の中には、気持ちよく働きたいと思うのに、どうしてかそれが果たされない抑圧を感じる、そのことへのもどかしさと疑念が共通していたように思う。
転勤族で大学進学で上京してきた彼女からの「東京といえば、〜さんって感じだよ」という言葉、気がつけば彼女とは6年の付き合いだったということ、なんだか感慨深い。日常的に会って買い物や散歩に付き合ってもらうこれまでのような関係には一度一区切りになるだろうか、そんな日に自分が育った街を紹介してお茶をすることができてよかった。
そのあとは高校時代の友人と飲みに行ったけれど、1人は上司からの責任転嫁への不信感が原因となり休職(転職活動中)、もう1人も上司との関係が苦しくなり退職したと聞いた、明日会う友人も長らく転職活動中でいるし、快く仕事を続けるということはどうしてこんなにも難しく感じられるのだろう。原因は具体的にはそれぞれだろうが、やはり立場が弱い人のところへ転がり落ちてくる抑圧が見逃されていることが根本にあるのではないかと思われてならない。
人が、働く場所を離れる、ということを会社や社会は放任しすぎているのではないか、と思うし、「どうにもならないこと」として扱われていることについての掘り下げが浅過ぎるのではないか、と思う。

今年は年始に決めたという以上に、働くことに関してよく考えた一年だった。

平日の朝、早く目が覚めて、起きようか、あと30分眠ろうかと迷うなかでSNSを開くと若松英輔さん「たったひとりでも自分以外の人を、真剣に考える人がいればその場には熱が生まれる。だがどんなに多くの人がいても自分のことばかり考えていると、その空間は本当に冷たくなる。『モモ』に出てくる灰色の男たちに囲まれたときのように。誰かのことを真摯に思う。それだけで何かである、と私は思う。」
会ったこともない人の言葉が、自分の言動を肯定的にも批判的にも省みる契機になったりする。外から見たら空回り、結果的にそうなってもいいから、周囲を、自分を、信じてみる、ということは勇気の要ることだけれど、私はそれでも平気だから、やる。

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