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○ 映画『Coda あいのうた』先週の上映を逃して今週

 先週の上映を逃してしまい肩を落としていた映画『Coda あいのうた』が今週も上映されていると知って、昼に観に行ってきた。
思えば、映画館で映画を見ることが久しぶりで、なんか、ただ映画の予告を見るだけで涙が出ていた。
実際の現場の状況は知らないけど、本気で楽しんで仕事をすること、やりたいと思うことに自分のやりがいがあって、のめりこんでいけることが羨ましく感じたのだと思う。転職を考えているので尚更……。
1人の自分があっちこっち行って、心を動かしながら良さや欠けている点の両方を理解しようとして目を配り耳を澄ましている。そのことに翻弄されるだけでなく、私は何を選ぼうか、と考えている、ところです。


(映画の結末についても触れているので観ていない方はお気をつけください、
あと相変わらず長いです)

 CODA(Children of Deaf Adults)について知ったのは、同じくCODAを題材にしたドキュメンタリー映画『私だけ聴こえる』(松井至、2022年)を6月にイメージフォーラムで観たとき。ろう者の家庭に生まれた聴者の子どものことを指す言葉で、聴こえる世界と聴こえない世界の橋渡しをすることが日常的に必要とされる。例えば、家での家族との会話は手話を用い、外での聴者社会とのあらゆるコミュニケーションが円滑に運ぶよう通訳をしたりする。両者のことをよく理解できる立ち位置として頼りにされながら、板挟みになることの孤独やアイデンティティの確立が難しいというCODAのマイノリティ性による苦悩が『私だけ聴こえる』では取り上げられていた。

『Coda あいのうた』
 これだけ物語の中に自分の周辺が描かれていると感じる映画はないと思えるぐらい、私の心に残る映画だった。私自身はCODAではないけれど、代弁する、カバーするという役割とその感覚、周囲に不足することや欠けていることを先んじて察知し率先して補おうとすることに自分の役割を見出す(そうしなければ自分の居場所を獲得することができない)ヤングケアラー的な側面は自分自身よく知っている。周囲の人のことを代弁する言葉ばかりが長けていき、自分の気持ちや言葉は後回しになって主体的な言葉や働きかけが自分の中にぼやけていく、そのことを思った。

「家族と離れて行動をしたことがない」
 そうV先生(音楽教師)に打ち明けたルビーは、家庭を離れ街を出てボストンの音大に進学する。映画はここで終わるけれど、その先にだってきっと困難はある。1つのことがうまく運んでも、その先にまた新たに壁は現れる、1つのことで人生の全てが晴れ渡ったりしない、当たり前のことだけど、それは明日や来週、来月、来年のことを自分でリアリティを持って見通そうとすることでしかないってラストシーンを観て、ルビーを運ぶ車のその先に、そう思える映画だった。

誰もが、自分が負っている制約の側にいざるを得ない、そのことの葛藤
 母親が、ルビーが合唱を始めたことに対して「反抗期なのね、私がろう者でなく目が見えなかったら絵を描いたのかもね」とルビーからしたら特大の嫌味を言うのは、自分が感じることのできない音楽への引け目、聴者である娘との距離が急に目の前にくっきりとしたこと、そのことにハッとして、自分の地点を確かめるためだったのだと思う。各々が自覚する対象との距離が人を歩み寄らせ、急激に引き離しもする。
父親は、心の内では音大に進学したいと言うルビーを応援したいと思っている、けれど新しい事業が思うように運ばないことを聴者である娘が通訳を断ったせいだと感情的にぶつけてもしまう。兄は、妹の背中を押したいと思っても、聴者である妹ばかりが必要とされ期待されることにやるせなさを感じている。
 「したい」、と思っても、社会的な制約によって「することができな」かったとき、障害の存在が自分の前に大きく立ち塞がる。
例えば、ロッシ家のライスワークである漁業、ろう者だけでの漁船での漁業が、無線を取ることや危険を察知することができないから違法であると勝手に判断され、職を失いそうになる場面。それもシステムが改善(テキストでのやりとりが可能になったり)されれば「できる」に翻る。
「できない」と思われることは、あらゆる不利にもなる条件そのものに貼りついていることではない、と言うことのできる社会でありたい。

 自信がなくとも、拙くとも、その時々の全力に真摯に向き合ってくれるV先生の存在は羨ましかった。アメリカ社会の中でメキシコ出身であることのマイノリティ性や背景については感覚としてわからないから憶測だけれど、1つには近い経験や疎外感を自覚し想像できるからこそ、教師と生徒という力関係の差がありながらもなるべく対等に寄り添おうとすることができる、と感じられる関係性だった。

 登場する誰もが、映画というフィクションの中に特別に用意された過剰に輝かしく描かれる存在を免れていた。健やかで、描かれる世界に適切な眼差しがあってこそ、登場人物の、演者の中にふつふつと湧き上がる固有の煌めきを汲むことができる。
とにかくこの映画の登場人物は真っ直ぐで、声が通らないかもしれなくともぶつかろうとする、「フェアじゃない」と表すことができる。そのことが、この映画を明るく感じさせる1つの要因だった。

心の揺れ動きの両極の誤魔化せなさが丁寧に描かれていた
 ロッシ家はルビーの通訳なしでは新事業の継続が難しいということをルビーに押し付けてしまう、その反面、娘の夢が自分に感じられない音楽であったとしても家族として背中を押したい。
ルビーは自分の人生に予想もしなかった音大進学に挑戦したい、けれど自分は家族に欠かすことのできない存在であることも無視できない、そのために先生の期待に応えることができなかった、自分は自分の持ち場に戻ろう。
その消極的とも主体的とも言うことのできない決断を周囲の一人ひとりがそれぞれの言葉、働きかけによって引き戻し、導いていく。

 父親の手話の溢れ出す語彙と表現力、ただ一言で済んでしまうような言葉が彼を通して物語のように綿密に紡がれていくところ、いつでも溌剌としてカラッと明快な手話を表す兄の存在が愛おしかった。

 現実に見えなくなっていたことが映画の中に見えてくることがあって、どこにもないと諦めたことが「あった!」となる、そのことの快さを改めて感じた。

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実はフジテレビのドラマ『silent』もおもしろく観てる。最終話放映の前に一度感想を書きたいけれど間に合うかしら。
春尾さん(手話教室の先生)と奈々さん出会ったよね……そこ気になってます。

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