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・今日の周辺 2023年 ひとつひとつが大切な食器 人との言葉の取り交わしの重み

○ 今日の周辺
夏バテっぽくもあり、食事に対するモチベーションが下がっていた。
今朝はひとまず、きゅうりを1本千切りにして、その間に麺を茹でて、トマトとカニカマとキムチを乗せて簡単に10分ほどで冷麺を作って食べた。
そのくらいのことでもいいのだと思う。自分が生きていくのに欠かせない、食事や睡眠や労働や活動にできるだけ自分が主体的に動くこと、些細な意識の違いだけれど大切に思える。
7月に残業が続いたのもあって、盆休みに疲れがどっとでた。

まだ引っ越せないけど、景気づけに(?)承知のうえで今にでも引っ越しを始める勢いで見積もりを出したり、必要な手続きを調べたり、物件を探したりしてみる。
仮の職場の見当をつけて、どの路線で通おうかとか、職場と街の間に住んで、休日はこの辺りで遊ぶのだとか、職場の近くに映画館があるから帰りにレイトショーを見て帰ることができるかもしれないとか。川があり、山があり、まだ行ったことのない場所がその周囲にはたくさん広がっていて、旅行をするのだって行きたいところを当たっていたら随分かかりそうだ。

青い床 大きな窓 開けた外の景色 植物 ひとつひとつが大切な食器 人との言葉の取り交わしの重み

自分が好きなものが自分に取り戻されるまでにたくさんの時間がかかった、そのような感覚がある。
寝室は内藤礼さんの作品のような真白いテントのようにしたい。

夜に友人と公園のベンチで話していると、ようやく土の中から出てきた蝉の幼虫が絶対に木がない方向へ歩き始めていたので、やさしくつまみ上げて木の幹に添える。


○ あれこれ
映画「Barbie」やっぱり気になって、1時間後の上映のチケットをとって見てきた。

(以下ネタバレを含みます)
ロールモデルを描くことの正と負、1960年代、女性がなりたくても諦めた職業、弁護士、医者、大統領、小説家……これだけ様々に描いたにも関わらず、それが時代を経るなかで身体的にもキャリア的にも「あるべき女性像」となり、ひとりの女性が「あなた」であることのプレッシャーになってしまった。
ストーリーやメッセージは女性に向けてだけでなく、女性をキーに「あなたがあなたであること」として男性へも向けられていた。
男性と女性を表裏の存在として描くことで、どちらがどうだとかバイアスやステレオタイプからジャッジするのではなく、どちらもが、誰もが、不利な立場に追いやられたときに感じる抑圧や陥る不安、それに対する反応、感情的に取り乱したり、どうしたらいいのと不安を露わにしたり、誰かを頼りたくなったり、そのような反応は「女性」固有のものではないのだと改めて示してもいた。
女性として生きていくなかで周囲から押し付けられ直面し続けるダブルバインドが熱のこもった吐露によって具体的に羅列されるシーンは圧巻で、壮絶に感じた。

私には「アラン」というケンの親友として作られた唯一の存在が、ケンや男性キャラクターと結託しバービーワールドに存在しなかった男性社会の実現を夢見るグループに随従するのではなく、女性に迎合してみせる下心とかでもなくどうしてかバービーなどの女性側について行動していたのが控えめながら印象的だった。「男」と「女」のなかの多様性はあれど、そうでない存在が排除されたバービーの世界のなかで、アランの存在と行動に気持ちが少し和らいだ。
視覚的には、バービーワールドを再現したパステル調のカラフルな世界観でありながら、けれどどこか常に半トーン暗い、理想的で完璧な世界として描かれながらも嘘くさく無機質さもある世界には不気味さがあって、そのバランスが絶妙。
終始皮肉が効いていて構成的にも視覚的にも退屈なんてさせない2時間。

どちらか一方を中心に据え続けるということが不均衡をもたらす。だからといってバイナリな価値観から両者を異性愛で結びつけることで中立化したように見せるのも安易だ。その先について考えるのがこの映画の外側のことなのだと思える。
公開から1週間ということもあって大きなスクリーンで見ることができて満足。それに、同じ回を鑑賞していた女性が序盤から声を上げて爆笑していて、場内がだんだんと温まっていくのも他にない鑑賞体験だった。

人との距離感や接し方、信頼することについて考えるのにいい記事だった。

「互いを侵し合わない」というの、何をやるにも、ただ働くにしても、他者と関係を結ぶうえですごく重要なことだと思う。侵し合うことで共犯的な関係をつくり、その関係を元にメンバーを連帯させたり、動かすという原理を用いているコミュニティってまだ結構あるのだとわかって、より一層その意識の重要性を感じる。相手にとって「危険」なこと、「安全」なことは何か、何が嫌なのか、何とは距離を置きたいと考えるのか、そのことをコミュニケーションの中から感じとることで、互いに無理なく可能な距離感や関係性が育まれる。そのような繊細な関係を形づくるのには慎重さや緊張感がいるけれど、私には結構好きな時間だ。人と人との間で互いの印象や、言動に規則性が見え始め、予測が立ちやすくなっていくことは親しみやすさや安心感を生むけれど、それが互いに確定してしまうとき、何か少し残念に思われたりもする。
互いの内面を探る時間が長続きする人とのコミュニケーションはいつまでもいつまでも新鮮さがあり、好奇心がくすぐられ楽しく充実している。


野外フェスでの性加害、本当マジで異論はなく、対女性であれ、未成年であれ、男性であれ、相手がどのような属性を持つ人であるかにかかわらず、人の体に無断でいきなり触ることは、暴力的なこと、他者を侵害する行為であるということ、誰もが同じ認識を持ってほしい。
「触る」ということは、相手の私的な領域に入る、ということ、「触ってもいい」というのは「私」の方が勝手に判断をすることができることではない。
「触りたい」「触ってもいい」がイコールで結ばれ、衝動的な行動に移すことができるということ、そこには「侵す」ということが何の言い訳も許すことなく前提となっていると思う。「無断で触ることができる」ということが他でもない相手に対する加害行為であり、それを行使することができる立場であると認識しているからこそ、するのだ。他者の私的領域が侵されるとき、どうしてそれがほとんどの場合「女性」に対して行われるのかといえば、それを未だ容認する社会であると知っているからだ。
電車や地下鉄での痴漢行為にもいえるけれど、個人を特定しにくい場面を選んでどさくさに紛れて行うというのも厄介。侵害された人が、その後どのような心境で居続けるのか、想像するだけで分かることができるだろうか。


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夜中にスピッツなんて聴き始めたら眠れなくなった。
外は大雨。明朝止んでいたら蝉の羽化でも見に行こうか、もう遅いかな。

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