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・今日の周辺 2023年 背中をとんと押されて抜け出たのです

○ 今日の周辺
朝、細々したことを済ませて、久しぶりに図書館にきました。
朝起きたときはどんより曇っていたけれど、外に出て自転車を走らせている間に晴れてきた。つい先月までは葉を落としたままでしんとしていた木々が、新しいしなやかな葉を枝に湛えて広げていて驚いた。唇に蜂がとまってびっくりした。初夏の雰囲気です。

白いハットを買った、好きな靴を色違いで新調した、
誕生日は家族と大きいケーキを分け合って食べた。
遠くに住む友人がLINEギフトでプレゼントを送ってくれて思いもよらないことで粋だった、会わなくとも誕生日をきっかけにして思い出してくれる友人がぽつぽついて嬉しい。

ようやく新しい職場の場に慣れてきた。仕事覚えはまだまだだけれど、前職から比べものにならないほどに楽しく仕事をしてる。
職場で相談をできる人は多い方がいい、そうすると自分が相談したいことも細分化することができるし。小さな事務所で働く友人の困りごとを聞いて、会社という組織の中で必須であるにも関わらず軽視されている類の雑務を誰が負わされているのかということを責任者が認識できていないということの重大さと問題のありきたりさに、前職場を思い出してどこも同じかとがっくりくる。言語化することが難しいために些細なことなのだと思われることであったとしても不満として共有し、一緒になって怒ってくれた上司の存在をあらためてありがたく思い直しながら、フォローする立場として自分で想像してみるとなかなか難しいものとしてある。
エレベーターで移動する間、それぞれから溢れる愚痴みたいなものから人間関係が浮かび上がってくるのをまだおもしろく見ている(巻き込まれるのは面倒くさい、働いていればその中に属さざるを得ないのだけれど)。


○ 26度目の誕生日
iPadの画面を蜘蛛が横切りました。

9時に家を出て、よく晴れた日、線路沿いに作られた春の走馬灯の中を颯爽と行く(中央線)。
浜離宮庭園を散歩した。安田登『あわいの力』の中で浜離宮庭園について書いてあったことを思い出して行ったのだけれど、本に書いてあったことを全然見つけられなかったのは、浜離宮庭園じゃなくて六義園だったから、という残念エピソード。
それでも今日は散歩するのにぴったりの気候で、土の地面をじっくり歩くだけでもいい。遅咲きのいろいろな種類の桜を楽しめてよかった。
その後は銀座で服部一成さんの小品篇(奥野ビルという建物もとても楽しかった、古いエレベーターがあって、上手く乗れる自信がなくて乗らなかったけれど)、梅津庸平「版画物語」、お昼は沖縄豆腐定食を食べて、飯田橋で木村和平「石と桃」、矢来能楽堂で『蝉丸』みて帰ってきた。

矢来能楽堂『蝉丸』
 これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関
いい歌、好きだな
最果タヒ『百人一首という感情』で読んだこの歌の印象も自分の中に重なったりする。能は、言葉にならなかった唸りとその余韻、残響、世の不条理に直面させられた人がそのことに向き合う時間の遅さに、付き合ってくれる芸能と思う。
上演時間は1時間ほどあるけれど、その中で語られることは、人や状況によっては「こういうことがあって、こんなふうに悲しかったんだよね」みたいにして2、3分で話しきってしまえるようなことでもある。けれどやはり、人に伝えきれない自分の中だけに湧いて止まない気持ちの重さ、遅さってある。それらを運ぶのを手伝ってくれる。自分自身が知っている出来事と重ねられる時間の余白を含んでいるのがいいところと思う。待ってくれる。
「物着」という舞台上で装束を変えていく演出から、静かな時間の中に言葉に尽くしきれない心境の変化を表しているのを受け取る。
つぎは『松風』、見にいくつもり。

いろいろなものが自分から剥がれて、剥がれていたことに気づいて、心軽く、いい日になった。


○ あれこれ
1人の人間であっても様々な側面を持ち、持たされる中で、現行の社会や経済の中で不適格であるとされる側面、しかしながら誰もが少なからず持っている、好ましくないとされる側面を特定の属性に押し付けて自分自身、もしくは自分が属する共同体を現行の社会に最適化しようとする、ということ。
慣習はあれど、性別や人種、属性、立場は関係なく、言動の責任はその人個人にあるのだけれど、そうせざるを得なかったことにも理由があることをなかったことにしたくはない。
二元というものが相互依存によって成り立っている、というのもこのことに関わっているのだと思う。二元の両端は独立した価値であるように見えて、実は相対的評価によって成り立っている。
柳宗悦「行く雲も飛ぶ鳥も、何ものか静止するものと対比されない限りその運動を知覚することはできない。音は音なきところに響き、光は光なきところに輝く。」
まだまだあえて、差別をすることで自身の保身をしようとしていることに自覚を持てない人が多い中で、差別をして平気な人ほど、状況であるからこそ差別をする、誰も負け戦はしないし、その中にいながらなるべくそこから自由でいるためには、まずは自分の安全性の確保、その場から離れることもひとつの手だけれど、勝ち負けとか優劣でない人間関係に都度調整し続ける、し続ける、そのことが今は楽しい。その人の顔を見ているのが今はおもしろい。

通勤する、最寄駅から1本目の電車に乗る10分間は吉澤嘉代子さんの曲を聴いて、乗り換えをしてその後の2本目の電車の40分間では本を読む。
帰りは、最近は青葉市子さん、聴きながら、心も仕事から遠ざけて家に着く。


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マームとジプシー 朗読CD「四月生まれの雷」届きました


今日は図書館のテラスで、滝口悠生『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』読み始める。感想はまた今度、
植本一子さん、金川晋吾さんとの新刊『三人の日記 集合、解散!』、はやく読みたい、楽しみ。

自然は、毎年忘れずに同じ季節を担っていてすごい。私は季節をいちから表現するなんてできそうにない。

風の中、木漏れ日の中、水の中にいるみたいに煌めいている、葉の間に、白い大きな雲がほぐれながら形を変えて運ばれていく、
たんぽぽの綿毛をたくさん摘んだ子どもが慎重に慎重に歩いて行った。
虫が歩くベンチの手すり、咲き終わった花の軸がぽろぽろ落ちてくる木陰。

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