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香水批評試論——ほのかに匂い立つ地平へ

はじめに


香水を批評したい。というより、それをしなければならない幾つかの理由があり、何の因果か僕はその要請を(幸か不幸か)キャッチしてしまった。なので、こうして筆を取っている。

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間(あわい)にあるもの、抽象的なもの、倒錯しているものほど「語りしろ」がある。簡単には解せない未分類のものを言語の枠にはめて情報の整理を促してやることは、それがとりわけ「批評」という多層なメタ認知を要求する営為を通過してアウトプットされる場合などには、身の延びるような快楽を語り手に与える。「オタク批評」と一般的に揶揄されるようなものが広がりを見せたのも、根底には「語りえなかったものを語っている」という認知上の快楽がプレイヤーを支配した側面があったのだろうと思う。


あわいにあるものを語りたい。その磁力は勿論、批評に興味を始めた当初から等しく僕にも覆いかぶさってきた。しかし、というより当たり前のことだが、未分類の対象を批評のゲームにまでエスコートできるプレイヤーは相当な手練れと相場が決まっている。彼らは口説き方を知っている。どんな装いで、どんな表情で、どんな言葉選びをするべきなのかを、度重なるゲームの中で会得してきている。


その点、僕は半端者だ。エスコートする手は震えているし、どこに連れて行けばいいのかさえ定まっていない。所在なく立たんずんでいる姿を眺めて、すすけた街角の隅から連れ出す方法をあれこれ思案している。どうやら僕が目を付けたそいつは、過去に連れ出そうとしたやつすらいないらしい。いっそ振るのが上手いのならば、こっちだって諦めがつくのに。

BYREDO / SLOW DANCE


しかし、それでも手を(筆を)取る。この手の震えは「試論」という題によってギリギリ隠し切れてはいないものの、卑しくも誠実な印象を幾分かは醸してくれるだろう。むしろ僕は、「試論」という名詞を「香水批評」という漠然とした大きなテーマに、自分のような半端者が接続しても何ら違和感のない現状に疑問を抱いている。くだらないナンパのアナロジーを脱ぎ捨てて裸の言葉で話そう、なんで香水の批評は無いんだ?

三つの倒錯した動詞の醸す語りづらさ/語りしろ


香水は「纏う」ものだ。それでありながら「付ける」ものだ。そして実際には「匂う」ものだ。香水にまつわるこの三つの動詞は、香水の持つ倒錯した魅力を端的に表現している。一般的に「纏う」ものは衣服であり、身体に「付ける」ものはアクセサリーやリップ等のコスメだろう。しかし結果的に香水は可視化されることなく、孔を通り過ぎた先の鼻腔が感知して「匂う」ことによって完結する。


この三者の関係こそ、香水の「語りづらさ」の源流であり、同時に「語りしろ」だと僕は睨んでいる。鷲田清一が展開したような足腰の強靭なモード論のように「纏う」ことを身体(皮膚)のダイナミクスから語ろうにも、逆に@コスメに並ぶ雑多なレビューのように「付ける」ことを杓子定規に語ろうにも、香水自体は匂った瞬間に目の前から消えてしまう。


足腰の強靭すぎる語りは、語られる対象もまた強靭であることを言葉の節々に仮託させながら社会と対象との連関を探る。しかし、香水は時間の経過とともに、ひらひらと匂いを遷移させてしまう(ノートの移り変わりを志向しないL'Orchestre Parfumのようなブランドも出現してはいるものの、この場での過度な言及は差し控えさせていただく)。皮膚の面から表象的に語ろうとしても、香水は吹きかけた瞬間から肌に馴染んで入り込み、ついには揮発してしまう。有機的なダイナミズムをノートの遷移と使用者の肌との親和性(万人にとって乗せられる香水など原理的には存在せず、各々の肌や体温によって香り方が異なることは香水の熱心なファンの間では半ば常識だ)によって演出しつつも、それはものの数時間で世界の中に溶けて無くなっていく。


それゆえ、現在の香水に関する言葉を取り巻く状況はというと、それを外の世界と連関させてビビットに語るような批評は鳴りを潜め、香料の解説や使用感のレビューが大多数を占めている。しかし、香水を語る言葉は本当にそれのみで十分なのだろうか。コスメのような具体的で可視化できるような対象であればそれで事足りるかもしれないが、香水は限りなく抽象的でインビジブルだ(香水瓶に関してはこの限りではないものの、それはあくまで副次的なものに過ぎない。最新型iPhoneのレビューをするのに、その梱包の機能美に言及することは妥当であっても、それは良くも悪くも主にはなり得ない)。そもそも「ムスク」や「サンダルウッド」や「ベチパー」などの香料を引き合いに出して、その語から連想される風景を表現するテンプレートなレビュー文は、香水の抽象的でふらふらとした魅力を完全には捕捉できてはいない。

DIPTYQUE / Le Grand Tour KYOTO


それよりも、もっと使用者の感覚に訴求するような言葉が並んでもいい。「わからない」ものを「わからないまま」語ることは、その対象が「わからない」読み手にとってメタ的な認識を要求する。その捻れを利用して抽象的な概念を読み手の脳内に出現させるほうが、よっぽどレビューとしては優れているだろう。

香水に対する批評的戦略


ここまで述べてきた語り方の態度に関する問題を抱え、それでもなお香水にまつわる言葉は必要とされている。現に、あなたにもしお気に入りのブランドがあったとして、そのWebサイトのフレグランスのページにジャンプすれば、その他コスメ同様にエレガントな紹介文がそこには並ぶ。調香師による深い洞察によってノートの一つ一つまで、文字通り一滴の無駄もなく配合された香水は、精巧な芸術作品でもあり、私たちの体に侵入し同化する気まぐれなアトモスフィアでもある。

エレクトリックでミルキーでスピリチュアル。矛盾を抱えた不思議な浮遊体験。嵐の前の静けさ。気持ちを強くする秘密のレバー。一吹きからはじまるあなただけの新しいストーリー。まだ見ぬ旅路の幸運を祈る。
Marson Matine / AVANT LORAGE 

明確なベクトルを持った作品を前にして、それを受け入れるだけの懐がこちらに用意されていないのは作品の不幸そのものだ。使用者による香水の語り方は、どうやら本格的に拡張される必要がある。もっとゆらゆらと、使用者のインナーワールドと外に広がる街を香る皮膚を境に反復しながら、この嗅覚によるスリリングな娯楽をより有機的に語ってみる可能性が未だ手付かずのままに転がっている。

L'Artisan Parfumeur / 33 Abyssae


この可能性の世界のパイオニアとして、末席にいる僕もやはりフラつきながら記述しなければならない。僕の取る戦略としては、使用感に関するエッセイをゲートウェイにした香水の「言葉における」要素の抽出を図る予定だ。先に述べた3つの動詞にまつわる倒錯といい、抽象的で曖昧な香水を取り囲む言葉には、明確な定義を拒まれているが故の新鮮なレトリックが散らばっている。それらを拾い集めて、まるで映画や小説を語るように、僕たちの香水との関わり合いを明瞭に拡張したい。

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試しに一つ、香水と言葉にまつわるレトリックを取り出してみよう。生き生きとした情景が眼前に浮かぶようなテキストに対して、僕たちはよく「匂い立つ」という形容詞をあてがう。言うまでもなく「匂い立つ」というのは嗅覚によって感受される情報であるが、思えばテキストは匂いから遥か遠い場所に置かれたメディアである。絵画のように臭気を視覚的に表現することもできなければ、動画のように匂いの立ち現れる現場をオンタイムでパッキングすることもできない。要するに、視覚的な情報を総動員して行われるべき嗅覚の補填が、テキストにはできないのだ。

だからこそ「匂い立つ」という形容詞は、この感覚上の遠さを逆説的に利用した賛辞として人口に膾炙している。「匂い立つ」という言葉は、テキストがリーチし得ないような情報まで網羅できてしまうようなテキストに与えられるトロフィーであり、その語を用いる私たちにテキストと匂いの持つ複雑な関係を内面化させる装置なのだ。

一つの形容詞が演出するレトリックを媒介にして、遥か遠くに位置しているはずのテキストと匂いは背中合わせの構図にまでその距離を縮減させられる。両者は互いに息遣いを感じつつも、完全には補完し得ないことを暗黙の内に了承しており、僕たちは彼らの/彼女らのため息からのみ背中の向こう側にある相手の表情を察知することができる。この距離を喪失させるレトリックこそが香水を批評する際に語り手を導く、甘美な案内人となることは想像に固くないだろう。

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鼻腔を突く香りを道標に、言葉と香りの地平にふらふらと吸い寄せられる自らを描写する。僕が今打てる戦略は以上だ。この作戦がどの程度の妥当性を持っているかは、やはりまだ図りかねる。傍目から見れば、ただ目的もなく千鳥足で歩いてるだけの狂人じみた存在に見えるかもしれない。それで上等、その足跡から立ち込める鉄と赤土の混ぜ合わさった茹だるような臭気すら、テキストに混ぜ込んでしまえ。

ともかく自分のできることはといえば、この匂いが肌から揮発して消え失せてしまう前に、言葉によってあわいにある空気を「匂い立たせる」ことしかない。



MAISON CHRISTIAN DIOR

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