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Vol.15 God's Trashmen Sent to Right the Mess/Fievel Is Glauque〈今のところnoteでまだ誰もレビューしていない名盤たち〉

God's Trashmen Sent to Right the Mess(2021) Fievel Is Glauque 

Fievel Is Glauqueはニューヨークを拠点とするプロデューサーのZach Phillipsとベルギー・ブリュッセルのシンガーであるMa Clémentによるプロジェクト。ZachはBlanche Blanche Blancheというアヴァンギャルドポップ・ユニットでも作品を数枚発表している。それに対して、Fievel Is Glauqueのディスコグラフィは昨年発表したこのアルバム(というよりミックステープ?)とシングル2枚のみだ。

『God's Trashmen Sent to Right the Mess』は彼らが2018年〜2020年の間に数カ所で行ったライブの音源集である。しかし、毎回異なったメンバーで演奏を行い、自らを「ライブバンド」と名乗る彼らにとって、この音源集は単なるライブ・アルバムではない。そもそも彼らはスタジオでのまとまったレコーディングを活動の主眼には置かずに、ライブでの偶発的な活動を主眼に置く。この点において『God's Trashmen Sent to Right the Mess』は、バンドによるライブの録音物というより、ある芸術集団による聴衆を前にしたクリエイションの一環とみる方が妥当だろう。

端的に、『God's Trashmen Sent to Right the Mess』をライブ・アルバムのように聞いてはいけない。そうして本作を、あくまで独立のしたオリジナルの録音物として聞いた場合、やはり目立つのは汚れた音像である。ここ数年で一躍インディー界のバズ概念となった「汚し」や「ローファイ」だが、ここではやはり単純な録音環境の未整備が第一のファクターとしてサウンドの明瞭さを引き下げている。全体的に天井のあまり高くない密室で録られた質感が感じられるものの、曲ごとにサウンドの輪郭が異なるのは、前述の通り本作の録音が数カ所に渡って行われたからである。ともあれ、現代のポップスと比較して、明瞭な響きでないことは収録された20曲全てにおいて明らかである。

ここで、「汚し」や「ローファイ」といった概念がここ数年のポップス批評においてポジティブな文脈で使用されてきた前提を確認しなければならない。このような語が纏ってきた修辞の数々を、同じように本作が着こなせるかどうかについては甚だ疑問だが、少なくとも本作においても「汚れ」ていて「ローファイ」であることは重大な価値判断の因子だと僕は考える。

一つに、オーセンティックな歌との対比関係がサウンドの雰囲気によって完成していることが挙げられる。そのローファイなサウンドとは裏腹に、『God's Trashmen Sent to Right the Mess』の歌自体は明瞭で「固い」構造を抱えている。Ma Clémentのウィスパーボイスがボサノヴァを想起させるM3「Decoy」やニュー・ソウル風味のM7「We‘re Lost」など、ウタモノ自体の作りは60‘s〜70‘sのポップスーそれはジャンル横断的であり、しばしば「ソフト・ロック」と形容されるようなそれーを参照した「固い」ものが並ぶ。しかし、だからこそ汚れたアブストラクトなサウンドデザインは「単なる録音環境の不整備」という事実から、「オーセンティックなウタモノを汚すことによるサイケデリックな快楽」という感覚的な強度を抽出できたのだ。この感覚的な強度は、先の概念に対して言及され続けてきた作用の一つである。本作は、その録音環境の不整備をオーセンティックなウタモノの(ほとんど無作為的な)対比によって、結果的に時代と共振する面を持つ。

しかし『God's Trashmen Sent to Right the Mess』が隠しもつ魅力の本懐は、そこからさらにもう一段ツイストする。時代と共振する面をある一部分では持ちつつも、本作は圧倒的に現代のポップスとは相容れない感触を僕に覚えさせた。『God's Trashmen Sent to Right the Mess』の参照元は60‘s〜70’sのソフト・ロックであり、そのサウンドはローファイそのものである。大雑把に言いかえてしまえば、「新しくない音楽」を「新しくない方法」で録っているようなものだ。録音技術の進歩と不可分の関係にあったポピュラー音楽の歴史において、この関係は本作が「新しくない作品のようにしか聞こえない」ということを意味する。実際、『God's Trashmen Sent to Right the Mess』を一聴して、レア・グルーブの類だと思った者も少なくないだろう。順当に古い音楽、「2021年にワーナー・ブラザーズの倉庫から発掘された西海岸産70‘sソフト・ロックの好盤」とポップが貼られていても違和感のない一枚かもしれない。

そう、そうしてレッテルを貼った瞬間から、本作に潜む倒錯したエッセンスが本領を発揮し始める。そのような聴取スタイルを一度取ったが最後、違和感がそこかしこから噴出を開始する。じゃあこれが単なるレア・グルーブだとしたら、M1「the Perfect Idiot」のサビでのリジットなシンコペーションとチョッパーするベースは? M5「Simple Affairs」のサックスがリードする狂騒的な展開は?M6「Sweet Tooth」のブーンバップ・マナーに則ったイナたいビートとフローの重なりは?M13「Unnfiding」での、電化したバイオリンとも歪ませたギターともとれる早弾きは?M20「No Title」のサビで痙攣したようなポリリズムを刻むハイハットとノイズ・ギターの絡み合い(もしくは絡み合っていなさ)は?

発掘されたソフト・ロックの好盤を模倣したアルバムという、この作品を噛み砕こうとすればするほど取ってしまいたくなるこのスタンスを、そこかしこに散りばめられたノイズや性急な展開が絡めとっていく。当たり前のことだが、ソフト・ロックの黄金期には、ポスト・パンクもブーンバップもなければアート・リンゼイもいなかったのだ。本作のローファイさにかまけて過度なアルバムの単純化を行おうとすればするほど、60’s〜70’s的な聴取スタイルを取ろうとすれば取ろうとするほど、「その時代には存在していなかった」はずの現代性が首をもたげてこちらを覗いているのが視界に入る。随所で発揮される現代性が『God's Trashmen Sent to Right the Mess』の異形然とした佇まい、オーパーツ感を演出しているのだ。

つまり、本作の汚れた音像が作品全体に及ぼすもう一つの影響は「懐古的な楽しみ方を誘発しつつも、演奏のエッジさによって違和感を増幅させる」という倒錯の生成だ。『God's Trashmen Sent to Right the Mess』にはレア・グルーブ的な楽しみ方のみではなく、そのギャップによって演奏のアバンギャルドな側面を剥き出しにするグロテスクな趣味まで込みでコンパイルされている。

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ここで大枠のレビューが一度終了したとして、上の文章にあった誤謬を一つだけ取り出し、それを指摘してみよう。それは「そもそも黄金期のソフト・ロックはオーパーツそのものであって、このアルバムのグロさは他のソフト・ロックの名盤も持ってたんじゃないの?」というものだ。

なるほど、それは確かに間違いじゃない。このアルバムを聞いて僕が真っ先に想起したClaudine Longet『Love is Blue』にしたって、そのツギハギが多い構成に現代性とオーパーツ感を見出すのは容易い。

そんな指摘に対して、僕はソフト・ロック黄金期に宿るグロさをメタの視点で解釈し直した面すら『God's Trashmen Sent to Right the Mess』にはあると言い張ってしましたい。ソフト・ロック黄金期に宿るグロさは、非専業歌手によるコーラスの引き攣ったようなハーモニーからA&Mやワーナーといった大手レコード会社の構造的な歪み、そして「グループの大半がアルバム一枚のみを残して消滅する」といった儚さによるものだ。しかし、時としてその不和は音楽的な「ささくれ」を生み、その「ささくれ」がアバンギャルドな趣味として後年評価の対象とされる。

思うに、『God's Trashmen Sent to Right the Mess』はその「ささくれ」を引き剥がし、アバンギャルドな音から意味を奪胎させることによってようやくソフト・ロックもといレア・グルーブを生身のまま楽しめる形で提供してくれたのではないだろうか。「グロい部分」として解釈されていた部分に「ポスト・パンク的なビート」とか「アート・リンゼイ的な混沌としたスムーズさ」とか、後年に開発された別の意味をぶつけて実態を前景化させたと言った方が正しいだろうか。直情的な快楽の対象とされて、ようやくサウンドは世に姿を晒したこととなる。

そういう意味では、僕にとって『God's Trashmen Sent to Right the Mess』は、ソフト・ロックの抱える「ささくれ」を半世紀に渡るアバンギャルド・ポップの歴史を総動員して引き剥がしたアルバムだ。



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