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事業報告書02:オシャレと情報量(あるいはアニメ版『鬼滅の刃』とPlayboi Carti)

オシャレな人のインスタは、得てして無言だ。

乱暴な言い方をしてしまった。この場合の「オシャレ」というのは、自分の独断と偏見でしかない。なにか一定の基準があるわけでもない。ただ、自分が直感的に「この人オシャレだなぁ」と思ったインスタの投稿には、キャプションがついていない。あっても1〜2行くらい。ハッシュタグもない。あとストーリーも無言。古い看板とか、盛れない角度の自撮りとか、街で見かけた変な若者とか、そういうのが説明もなくポストされてる。

無言か否か。それはおそらく、情報量に関するコミュニケーションの問題だ。僕たち(急に主語がデカくなった。驚かせたらごめん。でも、そうなんだ)は過剰な説明を感知すると、途端に居心地の悪さを覚えてしまう。わかっているはずのことをクドクドと説明されるのは、些細だがよくあるストレスの種だ。片方が言葉を尽くす一方で、もう片方は落胆してしまう。致命的なミスではないものの、2人の間には、何やら薄くてフニフニした透明のパーテーションが設置されてしまう。その隔たりの生む距離に、しばしば僕らは苛立ちを覚える。

その点、無言のキャプションはコミュニケーションの余地をおし広げ、想像力を掻き立ててやまない。おそらく僕は、信頼を表明してくれたことに関する勇気への感謝と敬意を込めて、その対象に「オシャレ」という判を押している。他人が同じようなプロセスでオシャレか否かを判断しているのか、それは全くわからない。ただ、自分がそう感じる物と世間がそう感じるものとの乖離はあまりないため、そこまで見当違いではないとは思う。

逆の例を考えた方がわかりやすいのかもしれない。『鬼滅の刃』のアニメ版を筆頭に、説明過剰と捉えられさがちな作品が、半ば「現代病の発露」のような扱いで槍玉に挙げられるのは、作品を通じたインタラクティブなコミュニケーションを期待するタイプの視聴者に、対話可能性の拒否を突きつけてしまっているからだろう。炭治郎が自分や仲間の状況を逐一説明するたびに、「こちら」と「あちら」を隔てる透明のパーテションは次々と設置されていく。こちら側のマイクはミュートされ、あちら側からの音声がパーテションの向こうから一方的に放たれている。上の基準に当てはめるなら、アニメ版『鬼滅の刃』は全然オシャレじゃない。

ちゃんと語ること、つまり十分な説明が称揚されるケースも勿論ある。しかしそういうのは実利が優先されるビジネスシーンなどで、そういう磁場の働かない場所では、異なった法に基づいたコミュニケーションが要請される。ここを読み間違うと「野暮」とか「そんなのみんなわかって楽しんでんだよ」などと言われてしまう。そういう意味で『鬼滅の刃』のアニメ版は、そのプロットのみならず、あらゆる意味でビジネスライクな作品だ。僕は最初にあれを見た時、他のジャンプ作品と比較するよりも先に、アニメ版『鬼滅の刃』と『半沢直樹』との相似について考えていた。

それとは真逆の、コミュニケーションの余地を用意している、情報量の少ないものは、先鋭的な魅力に溢れている。昨今の短歌ブームは、情報量の過多がコンテンツにおける重大なマターとして扱われている状況を色濃く反映したものだと思う。短歌の会話可能性というか、コミュニケーションへの信頼度はとてつもない。

インスタの話に戻ろう。先鋭的でオシャレな人のインスタは、情報量が絞られている。この仮定が正しければ、世界で一番オシャレなのは、インスタのアイコンが未設定で名前も空欄、フォロー0で唯一の投稿も無言(しかも自分じゃない人の自撮り一枚)なPlayboi Cartiということになる。異論はあるかもしれないが、僕は案外この結論に納得している。アニメ版『鬼滅の刃』の真逆だ、何も言わなすぎている。世界は今、アニメ版『鬼滅の刃』とPlayboi Cartiという2つの極の間を揺れ動いている。

https://instagram.com/playboicarti?igshid=MzRlODBiNWFlZA==

ただ、先にも述べたように、実利を考慮する必要のあるシーンにおいて、情報量は盛られなければならない。例えば先日伺ったトークイベントで「オルタナティブなHip-Hopのイベント、フライヤーが見づらくてフレンドリーじゃない」といった趣旨の話題が展開されていた。

有料イベントだったので、詳細な文字起こしは憚られるが、そういったフライヤーのデザインが、新たなリスナー獲得の障壁として機能してしまっていることを登壇者は(シリアスな言い方ではなかったものの)憂いていた。これも「オシャレと情報量」の問題だ。オシャレなフライヤーを作ろうとすればするほど、情報量は低減していく。誰が出るのか見づらいし、会場の住所は当たり前のように省略される。ハイコンテクストなイベントの弊害だ。

なので、フライヤーを作るみなさん。オーディエンスを信用しているのはわかったから、もし宜しければその外側にいるリスナーにも門戸を開いてほしい。そんなに難しいことではないはずだ。情報量を増やして、視認性も上げよう。とりあえず、マイナーなフォントを使うのをやめて、ヒラギノ角ゴシックを使う勇気を身につけてほしい。ヒラギノ角ゴシックはいいぞ、文字が読めるからな。文字が読めると、何が書かれているか分かる。なんて素晴しいんだ。東京のイベントには、ヒラギノ角ゴシックを使う勇気が足りない。怖がらずに、ヒラギノ角ゴシックを。

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