見出し画像

香水とは「化学の詩」|フレグランス書評 vol.1:ルカ・トゥリン(山下篤子訳)『香りの愉しみ、匂いの秘密』

「香水の批評家」とは、一般にルカ・トゥリンのことを指す。というより、彼よりも高名で、かつ数多の言葉を尽くして香水に纏わる事象を語ろうとしている人物はいない。だが、その評価といえば短絡的なものが多く、「辛口=批評」といった具合の(ごく凡庸な)批評観に照らし合わされたものがほとんどだ。

ルカ・トゥリンの主著といえば、さしあたり『世界香水ガイド』になるだろう。これは数百個にも及ぶ香水のガイドブックで、選者のルカは星を与えると共にコメントを添えている。「帝王」と称される彼の評価はシビアで、最高評価の五つ星は滅多に登場しない。その巧みな罵倒コメントによって「ルカ・トゥリン=辛口」という印象が強調され、演繹的に「ルカ・トゥリン=批評家」というパブリック・イメージが形成されるに至った。

香りの愉しみ、匂いの秘密』は、その帝王像を別の角度から強調する。いや、むしろ本書はルカ・トゥリンの香水観を余すところなく追認させ、単なる「辛口」というイメージを解体した上で、氏の新たな批評家像を見出すことをも可能にしている。

彼の特筆すべき点は、徹底して言語のメタファーで香水の構成要素を捉えている点だ。本書の目的は特定の香りを醸す分子を「解読」することによって暗号化された匂いのルーツを追求することだ(p12)。続けて、ルカは香水の匂いを「化学の文字」とさえ呼んでいる。そう、ルカ・トゥリンの疑問とは「ある特定の分子と人間の受容体が反応することによって生じる認識」に関する、化学と美学の作用なのだ。

そもそも、ルカ・トゥリンは生物物理学と生理学のPh. Dを取得している研究者である。そのロジカルな語り口は、ある方面から見れば「辛口」かもしれないが、その実エビデンスに背かない姿勢を貫いているだけのことが多い。そのようなバックボーンもあってか、『香りの愉しみ、匂いの秘密』の後半は香料に関する科学者たちの奮闘史であり、香料に関する前提知識が多少なりとも要求される。ある程度の説明は用意されてはいるものの、この箇所に関しては東原和成が解説で指摘した「香水類の隆盛は香料科学の隆盛と並行している」というルカの持論を確認するための助走でもあるので、パフューマーとしての素養を身につけたい諸氏以外は退屈に感じるかもしれない(むしろ、下記のルカ本人による講演を視聴した方がすんなり学べそうだ。また、東原による詳細な解説も公開されているので、こちらも参照されたい)。

個人的に関心を抱いたのは前半部、ルカの香りに関する美学がレトリカルに述べられる箇所だ。彼はノートが遷移していく時間の流れを詩学のリズムになぞらえて、香水を「化学の詩」(p51)と喩えている。彼のテーマが簡潔に表現された一語だ。バラバラの言葉が折り重なって作られた詩が情景を立ち上がらせるように、異なる分子配列を有した香料の調合によって特定のランドスケープがそこに発生する。フゼアなら雨上がりの草原、マリンなら夏の浜辺、バニラなら幼い時に飲んだミルクティー……といった具合にだ。

興味深いのは「匂いのアルファベット」という仮説だ。これは生物がある定まった数の嗅覚受容体(人間なら約400個、マウスなら約1100個)を有していながら、それ以上の匂いを識別することを説明する。匂いに関する分子はそれより遥かに多いが、それらが一定の配列になった時にある特定の香りに「類似する」ものとして受容される。それらはアルファベットのように、「一つ一つの文字は意味を成さないが配列によって意味を認識される」ものだ。

たとえばその分子がR、O、S、Eという特徴をもっているとする。すると四つの受容体がオンになり、「ROSE」という語が脳のなかで活性化する。 配線には少し遊びをもたせ、完全に適合していなくても、 受容体からシグナルが(通常よりは弱いながらも)出るようにする。そのような特徴をもった化合物は「roSe」や「RosE」のようになるが、大文字と小文字が区別されずに読み取られるような段取りをしておけばいい。
そのようにするとどうなるかと言えば、たくさんの匂いを認識するシステムができる。 四文字の単語に限っても、二六の特徴のうちどれか四つの組み合わせは三五万八八〇〇通りにもなる。さらに都合がいいのは、これがオープンエンドになっていることだ。それまでにない新たな組み合わせの特徴をもった匂いに遭遇したら、それは新しい語としてきちんと記憶に銘記される。

『香りの愉しみ、匂いの秘密』(p128、129)

自身の美学と科学的な知見に基づいた、エキセントリックな仮説だ。ルカの卓越性は、両者を絶えず緊張関係に置きながら、香水に魅惑される自身のバックボーンとしてそれらを信頼している点にある。それは「パフューマーが趣向を凝らして制作した芸術品」と「ブランドの稼ぎ頭を担うプロダクツ」という、現代の香水が携えている二面性とも符号する。

それでもやはり、彼は批評家だ。名状し難い美しさを、ある時は自分の感性に裏打ちされた言語の視点から、またある時は最新の研究に基づいた科学の視点から、積極的に強調する。暗号化された「化学の詩」を、誰よりも丹念に読み込んだ最良の読者こそ、ルカ・トゥリンなのかもしれない。

Q:香水にこだわるようになったのはなぜ?
ルカ:みんなと同じ理由だ。役に立たないけれど素敵だからさ。

VOGUE JAPAN「ルカ・トゥリンのフレグランスの選び方。」



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?