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事業報告書 01:文学性と余裕

自分には文学性がない。

居酒屋で絡まれた強面のお兄さんが見せた意外な一面に、心を動かされたことがない。喫煙所にいるサラリーマンの目に映る悲哀に、感情を揺さぶられたことがない。駅前で歌う路上ミュージシャンの放ったリリックに、胸の奥を突かれたことがない。

そういう感性の乏しさを長らく憂いていたけど、最近はそうして憂うことすら文学性ワナビー仕草の一つに組み込まれているような気がして、どうにもこうにも身動きが取れない状況に陥ってしまっている。感性は乏しいくせに「こう思われたい」だの「こう思われたくない」だの、自意識だけは一人前では収まりきらないほど肥大化しているので、こういう袋小路によく迷い込んでしまう。

というよりぶっちゃけ、僕は根底に文学が「わかる」人へのコンプレックスを抱えていて、それが沸々と醜いルサンチマンに発酵しているのを無理くり見ないふりしているだけなのかもしれない。これは全く考証の行われていない、我流極まりない見解だけど、どうしたって文学的な感性は「なんでも味わえてしまう」という暴力的な側面を有していることを否定できないはずだ。さっきの例、強面の兄ちゃんも喫煙所のサラリーマンも路上ミュージシャンも、当人たちの余裕のなさから漏れ出た、えもいわれぬ感情を「美味しいもの」として味わう精神的な余裕がそこにはある。その不均衡、「余裕」という資産の多寡によって生まれる力関係を、鮮烈なレトリックや形容詞の裏に感じてしまい、なんだか疲れてしまうのだ。コンプレックスというより、一種の嫌疑を抱えていると言った方が正確だろうか。

こういうことをウダウダ考えた結果、僕は徹底して野暮をやることを決めた。「余裕」という資産の不均衡を文学の要件とした場合、お互いに節操なく泡沫を飛ばし合う野暮ったさはその対極にある観念だ。そういう後ろ向きなコミュニケーションが、なんだか自分の性にはあっている。

それがどれだけつまらなく、有り余る余裕を抱えた余裕ブルジョワジーの方々の癪に触るのかも重々承知の上で、だ。僕は蜂起のつもりで、粛々と日々を過ごしている。余裕の均衡を求めているのかと問われれば、そうでもないような気もしてくるが、少なくとも自分のアティチュードくらいは公明正大に誇れるものにしていきたい。そういう文学的感性からの逃げ道を提示できるロールモデルにでもなれればいいなと、邪なスケベ心を抱えてもいる。「別にいいんだよ、無理して文学的にならなくてもいいんだよ」と、肩を叩けるくらいにはなりたい。

ともかく、肥大化した自意識がルサンチマンに遷移するための防止策を一つ捻出できたような気がして、今は安心している。野暮になることで感性に中指を立てれてしまう快感に、しばらくは支配されていたい。タイムラインに流れてくる無数の文学の切れ端を見ながら、そう思った。

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