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Vol.13 Nina Maika/Edson Natale〈今のところnoteでまだ誰もレビューしていない名盤たち〉

Nina Maika(1990) Edson Natale

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Edson Nataleはブラジル・サンパウロ出身のギタリスト。ジャズギターを素地とし、ソロ作に着手するまではDhranaというクインテットで活動をしていた。現在サブスクリプション等で唯一合法的に聴けるこのクインテットのセルフタイトル・アルバムにはこの「Nina Maika」の元となった曲も収録されている。このアルバムもオーガニックな清涼感に満ちた傑作なので、気になる方は是非。


「Nina Maika」はナターリの初ソロ作であり、彼のギターの音色を軸に各サウンドが配置されている。しかし「クインテットを経てソロに転向したジャズギタリストの秀作」という評価よりも、むしろバレアリックのキラーチューンを抱えたアルバムだとか、Joseph ShabasonやWilliam Doyleなど現代のニューエイジポップに通じるパラダイム・シフトのような作品だとか、そういう文脈から語られることが多い。まぁどれも直感的にはわかる。


そして、ディスクユニオンやその他レコード屋でのレビューではこうも評されていた。曰く、「ポスト・街角クラブ」と。

ブラジル音楽をそこそこ掘っている者なら、上の文言はとっくに食傷気味だろう。もしこれからブラジル音楽を探す人がいるならこれは忠告したい。巷には「次代の街角クラブ!」とか「21世紀の街角クラブ!」とか「ニュー・ウルトラ・スーパー・街角クラブ!」みたいな文言が大量に溢れている。自分の観測範囲では、1か月に1個は新・街角クラブが出ている。もはや街角とは言えない、不遜な喧騒がそこにはある。


このような表現に惑わされずに、自分のペースで自分なりの街角クラブを探すことが何よりもヘルシーだ。また、そのような紹介をされているアルバムが悪いわけではない。むしろ内容が素晴らしいものがほとんどで、それに興奮したバイヤーが安易な常套句に手を出しがちなだけだ。


ご多分に漏れず、この「Nina Maika」もそういったポップが貼られているもののうちの1つだ。だが、このアルバムに関しては、「ポスト・街角クラブ」という文句は、案外的外れではないのかもしれない。おそらくこのキャッチを付けた担当者とは違うスタンスだか、僕はそう感じた。表層ではない、少し抽象的だが軽率に指摘できるほどには構造的に、「Nina Maika」は街角クラブをアナロジーとして引き合いに出せるポテンシャルを有している。

街角クラブはミナスのコレクティブのダイナミクスを束ねて切り取った、共同体の呼吸が聞こえる名盤だ。バンド演奏のコレクティブ化は、サウスロンドン始め最近のインディーシーンのトレンドになっている。顔を突き合わせて合奏を行う、それもローカルの仲間と。メンバーは入れ替わり立ち替わりで、その揺れこそがコミニュティの懐の深さにもなりうる。そういう意味で、街角クラブはミナスそのものだ。


また、コレクティブ特有の揺れは様々な音楽性の混血も促す。街角クラブには伝統的なショーロやサンバの要素に、同時代のロックやソウルやカントリー、またストリングスの多用によって室内楽及び映画音楽のエッセンスも盛り込まれており、それらが様々なミュージシャンの解釈によって攪拌される様がありありと記録されている。曲も21と多く、1972年当時のミナスの街角に流れていたリアルが余すことなく収録されている。


「Nina Maika」は、コレクティブによる音楽的な揺れが名手・Edson Nataleのギターを中心にパッケージングされている。そしてそのオーガニックな空気感に加え、室内楽やニューエイジにサンシャイン・ポップ等の音楽が客演のシンガーを交えて解釈されていく様は、街角クラブに通底していた価値観とマッチするのではないか。ミナスの街角からあふれ出す音の粒を受け止める街角クラブと、多種多様なシンガーがナターリのギターを経由してドーナツ盤に刻み込まれた稀代の名盤「Nina Maika」。これこそ、ポスト・街角クラブだろうと僕は思う。

「Nina Maika」で名演を披露してくれたシンガーをいくつか取り上げたい。

M4のタイトル・トラックでマイクをとっているのはLoren Oliveira。ビートレスな抽象度の高いトラックの上でナターリのギターとローレンの声が互いに響いている。ローレンはトーンをおさえ、歌い上げるというよりもささやくように、トライバルなムードを声によって助長している。

その次のM5「Alfacinha」は、結構相当衝撃かもしれない。ボーカルのEdson Cordeiroはカウンターテナー歌手で4オクターブ(!)を誇り、「服を変えるように声を変える男」という異名を持つとのこと。ナターリはさしずめコルデーロのスタイリストとして、存分に彼を魅力的に表現する。前半のシンプルなギターリフの部分は男性らしい低いトーンでコルデーロを統御し、ギターが重なり解放に向かう場面では、コルデーロの代名詞でもあるホイッスルボイスを効果的に使って曲全体を起爆する。声楽に疎い僕はこのホイッスルボイスがもう恐ろしく、とても前半と同じ人が出しているとは思えなかった。

このアルバムに最も参加しているのはSubaというシンガーだ。彼はMitar Suboticという名前でも活動しており、そちらではMeditation方面に依ったアンビエントを幾つも発表している。このアルバムに漂うアンビエンスは、彼の影響に依るところが大きい。


シンガーとしての貢献も大きい。コルデーロのやローレンほどの記名性はなくとも、ここではボサノヴァのマナーに則した流麗な歌声を残している。抽象度の高いトラックが並ぶ故、まるで此岸と彼岸を繋ぐ桟橋のようである。むしろ、このような歌唱によってよりトラックへの没入度が高まりそうだ。


以上のような優れたシンガーとナターリのギターの会話、その間に発生する揺れに身を委ねてほしい。


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