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モネの連作に、季語を看る。

中之島美術館が開館して、はや2年で来場者が100万人に到達したそうだ。
2024年2月25日に閉幕した『女性画家の大阪』展を鑑賞した数日後に、Googleさんが検索画面に表示してくれるニュースに、そう書かれていた。

同展を鑑賞したその日にスタートした『モネ 連作の情景』展の会期早々に達成したらしい。それもそのはず、『女性画家の大阪』展の隣にある入場レーンには、「今日中に入館できるのか?」と心配になるほど、長蛇の列ができていたのだから。

さて、その話題の『モネ 連作の情景』展を鑑賞してきた。
日本人は、呆れるほどにモネが大好きなんだな、とつくづく思う。どの展示の前にも人だかりで、ゆっくり鑑賞するのは容易ではない。

かくいう筆者自身も、モネが大好きだ。
淡い色合い、明るさ、優しい筆致が美しく、もう一度会いたくて、印象派展なら何でも足を運んでしまう。

■ モネの連作に看る「儚さ」という輝き

今日、モネの連作を鑑賞していて気付いたことがある。
私がずっと感じていたモネの絵画の美しさは、「儚さ」であったこと。

そしてその「儚さ」は、散りゆく桜や、落ちては消える淡雪のように、「一瞬で過ぎ去ってしまうもの」に「儚さ」を感じ、美しさを見ている。

モネは「光の画家」と言われる。
その所以は、筆触分割という絵画技法で絵の具を塗り並べることにより、彩度を高く保ったまま色を表現したことにある。筆触分割に関する説明は、『山田五郎 大人の教養講座』に詳しい。

モネの連作といえば、「積みわら」シリーズが好きだ。幼少期の冬休みの風景と重なるからだ。祖父母宅へ泊まりにいくと、必ず夕刻散歩に連れて行ってくれて、稲刈り後の田んぼに積み上がった籾殻の山にダイブしたことを思い出す。

今回の展示でも「積みわら」シリーズを鑑賞できるが、最も筆者の目を引いたのは「ウォータールー橋」シリーズだった。

「モネ 連作の情景」展示 ウォータールー橋 筆者自身が撮影

ほぼ全く同じ画角から描いている同シリーズを、並んだ状態で鑑賞したのは初めてな気がする。並べて観て初めて、全く同じ画角だと気付いたし、同じ画角で比較できたからこそ、
 ・モネの絵は日本の自然鑑賞と近しいものがある
と感じたのだと思う。

■ 風や雨にいくつも季語があるように、連作を観る

日本語には「雨」を表すのに100以上の表現がある。
春は「春雨」、夏は「梅雨」「夕立」、秋は「秋雨」、冬は「時雨」と呼ぶように。季節や降り方などに応じて「降水」という自然現象にいくつもの呼び名を付ける。
「風」にも同じように100以上、いやもっとたくさんの表現があるはずだ。

さて、モネに話を戻すが、筆者は「ウォータールー橋」シリーズを鑑賞しているときに
 ・時間を経るごとに、風景が色や光を変えていくこと
を描いた画題を通して、
 ・1つの自然現象を、時期やその強弱によって呼び名を与える
日本人の自然鑑賞スキルと同じものを見た気がしたのだ。

ウォータールー橋のあるイギリス・ロンドンは、産業革命後の工場排煙や、もともと曇りがちなこともあって、空気中に含まれる煙や水分の粒子が光を拡散して、独特な風景を作り出していた。

日々時々で風景の色が変わる瞬間を、モネは「ウォータールー橋」という画題で描き留めたのだ。

水面と空という遠景を、横切るように橋がある風景は、緩やかな遠近法も効いている。色彩変化をキャンバス全面に捉えるのに絶好の画題だったのも、「大気の色の変化」を鑑賞できた理由だと思う。

■ 睡蓮の外と奥に潜むもの、水面に込めたこと

西洋絵画を解説する動画を見ていると「消失点」という専門用語をよく耳にする。

もちろんモネの作品にも消失点はある。
筆者は芸術鑑賞のプロではないが、なんとなく、消失点が複数あって、かつ多層的だと絵画に躍動感があるように感じる。

さて、中之島美術館における『モネ 連作の情景』のクライマックスには、晩年の作品である睡蓮の作品が並ぶ。

この睡蓮シリーズは、画期的な画題だと思う。
「消失点がない」というのが、その理由だが、そんな一言では終わらない画期性があると思うのだ。
睡蓮シリーズに「消失点がない」代わりにあるものは、睡蓮が示す水面を境に、水平・垂直の両方向の遠近を描こうとした葛藤が見えることだ。

まず、睡蓮がなければ、描かれているものが水面とは分からない。そして睡蓮は、視線を水面に近づけるとそう見えるように、水平面の横方向を司っている。一方、縦は何が司っているかというと、水面に映る柳だ。
ここで、睡蓮を境目とした水上の縦横が表現されている。

「モネ 連作の情景」展示 睡蓮 筆者自身が撮影

それだけでなく、睡蓮の咲く湖は、水の流れが静かなので、水面下に広がる植物性が豊かだ。つまり、水面下にも風景が存在する。

私には、睡蓮シリーズが水面下の風景さえも描き込もうとしたように写るのだ。

画題は静かな庭の湖面の風景をクローズアップして描いている、静的な作品のはずなのに、キャンバスに写るそれにエネルギーを感じるのは、そこに葛藤が見えるからだと思う。

■ 芸術作品から定点観測される重要性

上述の鑑賞に該当しない睡蓮シリーズも、もちろんある。

筆者がここで強調したいのは、時を変えて同じ芸術作品を鑑賞し続けると、自身の感受性が変化したことに気が付く、ということだ。

それはまるで、
 ・鑑賞者が芸術作品を定点観測してるように見えて、
 ・実は、芸術作品が鑑賞者を定点観測している
ように思える。

奇しくも1つ前の投稿記事で、日本人の自然鑑賞スキルと、社会文化への転用について所感を記した記事を書いた。

インスピレーションが、古今東西に関わらず文化・芸術鑑賞に発揮されたことに、少しの驚きと、大変豊かな気持ちになる。

だけでなく、芸術鑑賞を通じて感受性の変化を実感したことで、筆者自身の変化も実感できたことに、改めて芸術鑑賞の良さを感じたので、ここに書き留めておきたい。

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