小杉湯へのラブレター 場とケアを考える vol.1
小杉湯に救われる。
そんな経験をした方もいるのではないだろうか。
私もそのひとりで、富士山の下でミルク風呂に浸かれば、やさしい湯気と一緒に一日がんばった体をもくもくと包み込んでくれる。
お風呂上がりにチルアウトを飲んで、帰り際に「おやすみなさい」と声を掛けてくれる番台さん。
ほっとして、ぼーっとして、大きなひと息をつける、落ち着く場所。
家にもお風呂があるのに、つい小杉湯に足を運んでしまうのはなぜなんだろう。
小杉湯健康ラボのコミュニティナース、かつ大学院生として感じたことを、小杉湯という場やケアの文脈から考えてみた。
あたたかいエネルギーが溢れる場所
まず、小杉湯そのものに魅力がある。
宮造りの歴史を感じる佇まいで、暖簾をくぐればキャメル色の木の温もりと活気を感じる下駄箱や待合スペースがある。
脱衣所や浴室は天井が高く、天窓から光がさんさんと差し込んでくる。
夜の時間帯でも明るく、天井やタイルの白に反射したやわらかいミルク色の光と湯気で満ちていている。
土日の朝風呂では、教会のように神々しく光が差し込み、普段より桶の音が響くような静けさがある。
時間帯によって違った良さを見せてくれる小杉湯について「明るいところが好き」と答えてくれたスタッフさんがいた。
天井の高さの生み出す開放感と、いつ来ても明るい空間。小杉湯が初代から大事にしているきれいで、清潔で、気持ちのいいお風呂。そんな空間と交互浴の調和が絶妙なのだそう。
明るい光の満ちる場所には、あたたかい陽のエネルギーがある。その光と湯に包まれ、エネルギーが体にじんわりとしみ込んでくる。
稲葉俊郎氏の著書「いのちは のちの いのちへ」のなかで、体の感覚を開くためには自分がおびやかされない安全な場所に身を浸すことを述べていた。
エネルギーを取り込めるような体の感覚を開ける場について、次のような一節がある。
3代目の佑介さんは「場所は人を評価しない。」とよく話しており、稲葉氏の言葉と通じるところがある。
銭湯ではどんな偉い人でも裸になる。
福沢諭吉が言ったとされる「湯の下の平等」において、身分や地位に縛られないただ1人の人間としてフラットになれる。
裸の身ひとつになると、なんだかいろんなことがどうでもよくなってくる。
湯で体を清めることで、心も一緒にすっきりしてくる。
湯に浸かると日々の緊張感でガチガチになった体が、だんだんゆるみ、ほぐれていく。
弱った体と心を助けてくれる、まるで避難所のような場所である。
銭湯は公衆浴場法にて社会的インフラのひとつに定められている。
きれいな水と環境を提供することで、清潔面から公衆衛生を守っている。
そのため、コロナ禍でも地震が起きたときでも休業することなく地域の人を受け入れてきた。
ケの日のハレの位置付けも大きくなっている銭湯だが、日常の必需品として必要としている人々もいる。
どんなときでも逃げ込める場所、いつでも閉じない場所として、私たちを包み込み、ケアしてくれるのかもしれない。
寺社仏閣のようなパワースポット
さらに佑介さんは「小杉湯は立地もいいし、井戸水、光の入り方、風や気の流れもいい。88年続いているエネルギーが蓄積されていて、寺社仏閣に近いものだと思う。」と話す。
小杉湯が神社仏閣のようだということについて、歴史を紐解くとしっくりくる。
日本の温浴文化のはじまりは、実はお寺である。6世紀の仏教の伝来とともに温浴思想が伝わってきた。仏説温室洗浴衆僧経に書かれている温浴の方法は「七物を用いて七病を除去し、七福を得るべし」とある。
たき火やきれいな水で体を清めることで、病も去り、福がやってくるという教えであり、温浴はひとつの医療に近しい儀式だったのではないかと思われる。
寺に浴場施設をつくり、温水浴をすすめる経典が配られ、葬式のときには地域住民に無料でお風呂がふるまわれた。
日本人の湯に浸かる習慣のそもそもの根源は寺社仏閣にあり、それがだんだん町の中へ広がっていったようだ。
また、小杉湯のような宮造りの銭湯が建てられるようになったのは、1923年の関東大震災後だそう。
震災で多くの銭湯が焼失してしまい、宮大工さんが寺社での建築技術を生かして建てたのが始まりと言われている。
震災からの復興に対する祈りや願いが、日本人の大切な文化である入浴をつかさどる銭湯に込められたのかもしれない。
小杉湯が建てられたのは震災よりも少し後ではあるが、移り変わる時代のなかでも変わらずに高円寺の人々を見守ってきた。
88年という人の一生くらいの時間に小杉湯を訪れた多くの人の思いや願いが積み重なり、パワースポットのように今ここに在る。
ぜひ小杉湯に浸かる際には、88年の時間に想いを馳せてみたり、湯はもちろん、光や風の手触りも感じてみてほしい。
(つづく)
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