Pさんの目がテン! Vol.23 病むことについて(Pさん)
先日いろんな場所に出かけたら、そこから貰ったのか今日の夕方から何だか頭がフラフラして、風邪の前兆じゃなきゃいいななんて考えながら帰ったらどんどん喉が痛くなってくる。
確信として、よければ風邪、悪ければインフルエンザか今流行の新型コロナウィルスに罹っているな、という感じになった。
熱はないので今罹っただの罹っていないだのと言い切ることが出来ずに、仕事をどうするのか考えこんでいる。
図らずも、一月前半のテーマとなった「病むこと」になっている状態である。
特に社会人としてかもしれないけれども、病んだ際に、症状それ自体に悩まされるというよりも、この「未然」の状態に置かされるということに、まず苦しむ。
今何か身体に起こっているとして、それが何なのか、終わらないうちにはわからないのである。
ヴァージニア・ウルフは、「病むことについて」において、そんな「未然」あるいは「未決」の方がいいかもしれないが、そういった状態について云々していたわけではない。もしかしたらニュアンスの奥にそういうものがあったのかもしれないが、少なくとも見えている文章の内には「未決」だの「まだ……状態に置いてかれる」などといった表現は見られなかった。
どちらかというと、その他の状況も含めて、弱者としての視点、ということに終始していたような印象がある。
病むことについて、中心に据えた小説家がいたことを、唐突に思い出した。
古井由吉の連作短篇『水』の冒頭の「影」において、その冒頭、一作の小説冒頭の何ページかが、咳をどのようにするかに割かれている。
タバコの煙のこもる部屋を出て清々しい夜気の中に立つと、不節制な躰から咳が出る。(略)
私の咳は風邪の咳と違って、気管の奥まで届かない。気管の奥まで届いて、そこにたまっている痰をゼイゼイと震わせる咳には、一種独特な快感があるものだ。熱っぽい躰の内部に力ずくで風穴をあけようとしているような、もうひと息で風が通って躰じゅうが爽やかになりそうな、カタルシスの予感がつきまとう。私の咳ははじめのひと声ふた声はともかく、三声目からはもう空咳なのだ。内のものが外へ押し出るとか、外のものが中へ流れこむだとか、そういった感じはなくて、(略)
(古井由吉『古井由吉 自撰作品 二』、「水」、「影」、7-8ページ)
この咳の描写には心底感心した。描写というのも違うかもしれない。何かを見て書いたわけではないから。ベルクソンが、「他のすべてのイマージュと際立った対比を成すようなイマージュ」だとしている(『物質と記憶』、8ページ)、「私の身体」を描くに際して、他の寺社仏閣、風光明媚を眺める視線とは違う視線、違う描写の法則がそこには流れているんではないだろうか。
僕はどんな病気にかかっても酒がやめられず、さっきも酒を飲んだその影響か知らないけれどもえらい気持ちが悪い。しかし酒を飲んで二日酔いの前にこんな状態になることもないものだから、やっぱりどこか体調がおかしく、喉が顕著に痛いのであるからやっぱりそれは風邪かインフルエンザでしか身に覚えがないんだけれども、やはり未決なので、明日休むとかどうするとかいうことが決められないのである。
この「未決」という発想に関しては、完全に、保坂和志のどこかのエッセイから借りた考えである。どこだったかは、すぐに思い出せない。猫を飼うにあたってマンションを借りるのだが選んでいるマンションの内の一つ、もうそこに決めようとほとんど決まったところで別の話が舞い込んで別のマンションにしてしまった、ところがそのほとんど決まりかかっていたマンションにたまに電車で通りかかるたびに、そのマンションの中で、自分がそのマンションを選んでいたかもしれない未来がそのまま進んでそこで自分と妻の二人が暮らしているかもしれないという根拠のない言い知れない思いに駆られる、という内容だったと思う。
それで、その気分の正体というか、それが目の前に漂うことによって絶えずマンションが決まっていない状態に引き戻される、という帰結だったか、その話は他の結論を持っていたか、「未決」に関する別のエッセイがあったのかどうか、忘れたけれども必ず似たようなことはどこかで言っていたと思う。
それがどうだったかは思い出せないけれども、それとは別に、『残響』の中で、歯痛に苦しめられて、あたかも一夜が永遠のように感じるという一節もあり、これも「病むことについて」であり、ヴァージニア・ウルフが、少なくともその時までは「それに注目した文学は、いまだかつてなかった」といった、身体的な病について、その後どこか、連綿と、あるいは点々と注目している奇妙な文学の系譜というのは、系譜というほど繋がってはいないかもしれないけれども、あるんではないかと思った。
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