見出し画像

『すばらしき世界』が、あまりにも残酷だった。

優しくなんかなかった。冷たかった。知ってしまった、気づいてしまった。面倒ごとを避け、見て見ぬふりをして、同調する社会を。そして、彼を羨ましいと思ってしまった自身の心の冷たさを。

”生きづらさの正体”

罪を償い刑期を終え、出所してきた元殺人犯の三上。社会復帰を目指した彼にとって、飲むべきは最低限の生活だった。それすらもまともに取り合ってもらえない、社会が向ける彼への目が冷たかった。

わからなかった。この映画をみて、彼がもがく姿を見て、私は何を思えばいいんだろう。「罪を償い出所してきた彼を、社会はもっと快く受け入れるべきだ」とでも思えばよかったのだろうか。まず一つに、自分はそう思えなかった。20にも満たない私の浅いの考えではあるが、一度犯してしまった罪は拭得ない愚か一生背負う必要があるものだと強く信じてきた。許してもらえるわけがない、平等に生きていけるわけがない、”元受刑者”のレッテルは一生消えやしないし消されるものであってはいけない。それが私が思う”罪”に対する”償い”というものだった。
なのに、彼を見ていて苦しかった。矛盾している自分に腹が立った。というか、ああこんなことで気持ちって揺らぐんだと思った。一方の視点から見れば、こちらが正義であっちが悪で、でもあちら側から見たらそれは見事にひっくり返る。所詮、社会は、人間はそうゆうふうにできていると気づいた瞬間でもあった。

でも、多分違ったと思う。
論点がそこじゃなかったように思う。彼がかかえた生きづらさはもちろん”元殺人犯”の背景もあった。でももっと本質的な部分で、彼は彼だったから生きづらかったんだと思った。彼が裏社会に入らなかったとして、彼が殺人を犯さなかったとして、それでもなお生きづらさはあったんじゃないかって。

世の中には彼のように、彼に非常に似た感覚で生きづらさを感じる人がいることに気がついた。彼のように、誰かが不当に虐められているのを自分のことのように心を痛め苦しむ人がいる。彼のように、身を挺して誰かを守る強い正義感を持っている人がいる。彼のように、不器用で、見た目と中身の違いをわかってもらえず、圧迫された人がいる。彼のように、自身の存在を否定してあるいは否定され、生きていることの意味に頭を抱える人がいる。

多くの人がそんな”生きづらさ”を経験したことがあるんじゃないだろうか。

でもこの世界のどこかには必ず”すばらしき世界”って胸張って言える場所が小さいながらには確かにあると思った。そんな彼らを支えてくれる人、本質に気づいてくれる人、暖かさを持つ人がどこかに必ずいる。実際、三上はその場所を見つけたし、そこにいてくれる人たちにも出会えた。

羨ましかった。この世界を皮肉なしに”すばらしき世界”って思えるであろう彼が。

だから残酷だった。どこかでそんな素直に生きることを諦めて、そんな社会で能能と生きてる自分に気づいたことが。そしてどうしても曲げることはできなかった、”あたたかさ”のない私の”優しい”の定義が。

そして『すばらしき世界』があると知ってしまったことが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?