見出し画像

日本社会の背景(Background of Japanese Society)

 いまの日本をよりよく知るために、日本がどのような道を歩んできたのか振り返ることは無駄ではありません。
3世紀の「魏志倭人伝」に倭国王(親魏倭王)卑弥呼の邪馬台国が記されています。ただ、記述の解釈違いによる邪馬台国に関する論争は未だに解決していません。
4世紀の初めころの古墳時代(大和時代)に畿内は統一されたようです。応神天皇から仁徳天皇の時代にヤマト王権が確実になったと考えられているのです。しかし、当時はまだ地方で豪族が活躍していた時代です。
その後、各地の豪族は政権連合の一員となってヤマト王権を支えるようになります。ヤマト王権から地方豪族には貢献度などに応じて氏姓が授与(氏姓の制)されました。5世紀になると各地の豪族は、特権的地位を「世襲」するようになっていました。
4世紀末頃の「宋書倭国伝」に倭の五王と呼ばれる讃・珍・済・興・武から朝貢が行われたことが記述されています。武は雄略天皇といわれており、埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した太刀名にあるワカタケル大王は雄略天皇とみられています。
古代の日本には多くの渡来人が来て帰化しましたから、古代の日本はいまよりもはるかに帰化人にやさしい時代でした。6世紀になると、私的な信仰であった仏教が公の宗教となりました。7世紀には、倭の五王による南朝への朝貢から約100年を経て隋へ朝貢使(遣隋使)が派遣されました。隋が滅び唐に代わっても8世紀から9世紀にかけて朝貢使(遣唐使)の派遣は続けられました。遣唐使は先進国の技術や文化や仏典と政治制度(律令制度)を学んで、収集して持ち帰ってきたのです。
701年に制定された大宝律令は、唐律を手本として日本型に編さんした法典です。大宝律令は明治維新まで国家統治の基本でした。明治時代に先進国から学んだ法律や規則や制度から日本型を編み出す手法は、大宝律令の制定に始まっていたのです!
奈良時代に平城京で、貴族を中心に仏教を背景とする唐風の天平文化が栄えました。894年に平安京への遷都があって平安時代になると、貴族の文化は日本独自の発展をみせて国風文化と呼ばれるようになります。当時の平安人は、唐風文化を日本の風土や生活に合わせて改良し、国風(くにぶり)文化として発展させる知恵がありました。近現代においても先進国の文化を取り入れるときに、往々にして原形とは似て非なる日本型の文化を作るという得意ワザの始まりです。
平安時代も後期になると、藤原氏に変わって武家の平氏が治める時代になりました。源氏が平氏を破って鎌倉で幕府を開いたのちも、地方では豪族が割拠していました。戦国時代を経て日本を統一した徳川家康が江戸に幕府を開き、将軍(幕府)は地方の豪族を大名(藩主)として力による主従関係を結び幕藩体制を確立したのです。
大名は地域を支配する権力者なので藩独自の規則を定めて、独立国と同様の統治を行っていたのです。幕藩体制により幕府と藩は上下関係にありますから同格ではありませんが、大名は一国一城の主として藩(国)としての自治権を持っていたのです。幕藩体制下の日本はUnited States(US)やUnited Kingdom(UK)と同じようにUnited Han(UH)ともいえる自治権を持った国(藩)の集まりだったのです。小さくとも新しい党を作ったり派閥を作ったりして、一国一城の主(お山の大将)になりたがるのはその名残かもしれません。
長らく続いた日本独特の文化は伝統として、明治維新の後も変わることなく近代化した日本に引き継がれていきます。最近の社会では変わってきたとはいえ、幕藩時代の「力」による主従関係は、官尊民卑の風潮や大企業と中小企業、元請けと下請けの関係や組織内の年功序列などにいまでもみられます。
組織の責任者が責任者に与えられた権力の証(特権)であるかのようにふるまって、組織が持つ情報を開示するかしないかを判断することがあります。また、組織や責任者に都合の悪い情報を開示しないで、組織も責任者も責任を取らないことも少なくありません。いまの社会や組織の運営において、いまだに幕藩時代の伝統を守り続ける姿が見られるのです。
伝統だからという理由だけで、長らく続けてきた慣習を後生大事に守り続けるのは保守でありません。伝統を守り続けるだけでは、保守とはいえず保身にすぎません。保守は伝統を時代に合わせて進化する文化を守る社会の姿です。
日本の社会が「力」に頼って守ってきた「民は依らしむべし、知らしむべからず」に基づく組織運営は、いまでは悪しき伝統となり見直す時がきているのです。先進国の座を守り続けるためには、先進国の組織運営の技術(プロジェクトマネジメント)を日本社会と組織に取り入れる時がきているのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?