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[一語一会 #39] コモンズの悲劇

人間が知覚・経験できる範囲を超えていることが起こっている.
アブダクションとバイアス(両方,根にはヒューリスティクスがありそう)の感度を最大限に高めても難しい人には間違いなく難しいことだろう.

誰でも使える状態でかつ限りあるものは,人々がそれを使い何かを得たい,得をしたいと思う限り(つまり,経済的にいう合理的である限り),簡単に使い尽くされてしまう.

よく言われることだが,地球自体がそうだと考えることもできる.
しかし,そういわれても実際どういうことかといえば難しい問題だ.例えば地球温暖化が進んだとて,物理的実体としての地球がなくなることはおそらくない.もちろん,人間が存在を知覚するから地球が存在しているのだとするのならば別の話だが.

そして,最近よく考えるのが,「ちりつも」されど「ちりつも」ということである.どういうことか.

例えば,日本人は割と個人で何か取り組まないといけないと思っていたり,もったいない精神を備えていたりする人が一定以上いると思うが,果たしてその微小な努力の集まり(塵も積もれば山となる,ちりつも)がどれくらい寄与しているのか.

また,(政治的にというよりパーソナリティのニュアンスで)私自身もまだまだそうだと思うが,保守的な人は多いだろう.だから,大局的に見たときに,現在の生活水準を変えずして,できることをして免罪符を得た気になって,世界各国との相対で見たときに少しだけ「ちりつも」のレベルが高くなっている,と捉えることもできるわけだ.(*補足としては,一人当たりでみれば先進国の日本はまだまだ貧しい国と比べると相当量寄与があるはずで,この総体は他の先進国との比較という意味.)

さらには,政治参加の面では「ちりつも」ができていない国であることもまたしかりではないだろうか.本気ならもっと多くの人が,政治を選ぶ必要があるし,世論として政治に迫らねばならない(そして同時に自分たちの身を切る覚悟がいる)のではないだろうか.

だから,逆に「ちりつも」の問題なのだと考えられないだろうか.
コモンズを比較的高強度で使い尽くそうとしているのは私たちなのではないか.使うことで消耗されにくいもの,機能(例えば選挙やベジタリアン料理)を十分使っていないのは私たちなのではないか.

その上で,今後大事になっていくのは,大衆が日々行っているような意識されない選択を,より「悲劇」につながりにくいものに再開発していくことだ.いわゆるナッジの考え方でもある.ここでは技術革新が重要になる.もちろん,可能な限り意識を向けてもらえる(つまり,自分の行動と「コモンズの悲劇」的状況をアブダクションでつなげる)場面を増やすようにすることも重要だが,人類最大のリソースになってきている意識はすでになかなか新たに得にくいものとなっていることもまたしかり(だし,知覚・経験できないことならむしろ自然ともいえる)であるから,バイアスの力に頼ろうというわけだ.

とこれくらいでは語り切れない話題であるのでまた書くこともあるかもしれないが,改めて「ちりつも」と本気度と倫理とは問い直したほうが良いと感じた言葉であった.


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