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[一語一会 #25] ブロンド

(性別問わず)かわいらしいね,カッコイイね,で済めばいいのだが,差別の源泉になりかねないのが色だ.

私は日本人ないし東アジアの人にありがちな,黒髪かつブラウンの瞳かつ黄色の肌(もっと言えば,胴長短足だし頭はでかい)という,別段特徴のない日本人男性であるので,個人的には気にすることは何もないと思っている.

もちろん海外,特に東アジアを出たときに目立つことは間違いない.欧米はもちろんそうだし,インドの人は肌の色は濃い目で,顔はヨーロッパ系なので東アジア系の私が一人いるとかなり目立つ状況だ.
今時ジャップなんて古いのだろうし,それ以外でもそれっぽい差別発言を受けたこともないのだが,それなりに長く滞在していれば好奇の目で見られる場面があることは間違いないと思う.

例えば,インドのムンバイに滞在している間には,単にフレンドリーなだけかもしれないが,道端やショッピングモールで話しかけられて,写真を撮ってくれと言われたことがなんどかあった.最初は,なんか狙われてるのか?と思ってなかなか警戒心を解けなかったが,滞在するうちに慣れてしまった.今思えば,日本人らしいおどおどさだったのではないかと思う.
どちらかというと,私の顔をみて,最初に中国人か?と聞かれるのが多いことに,日本人はもうあまりプレゼンスはないのだなと思って,少し悲しくなったのを覚えている.

こうして,良くも悪くも,私たちは見た目を大切にする生き物である.

個人的には,そのような習性の一部は,私たちが動物であるという,生き物としての特性に基づいているのではないか,と予想している.つまり文明がない場合にはそのような見た目の違いによって,仲間とそれ以外(これでも微妙な表現だが,少なくとも「自分とそれ以外」ではないと思う)を区別してサバイバルをしていたのだろうし,それがあることが理にかなっていたのだろう.

一方で,様々な本に出てきたが,わたしたち人間の遺伝子は99.9%くらいが共通しているし,実際上の違いは大したことがない.どんなに髪色や瞳の色や肌の色が違っても,障がいがあってもなくても,(個々への配慮は必要なときもあるだろうが,)根本は変わらないのだ.
だから,文明的な社会を作っているヨーロッパの人はしばしばブロンドで,青い瞳で,でも例えば中東の人はなんか違って,みたいなそういう多分に非論理的な結びつけと,そもそもの色による区別とは,文化的には確実に,生物的にも一定は,正当なものではないと言い切っていいと思う.

さらにそもそも論になってしまうが,例えば馬も生きている仕組みは人間とほぼ変わらないし,遺伝子も相当量共通しているのだから,他の生物(例えば馬)をめでるように,人間同士ぐらいの小さいことは気にしないようにすればいいのに,と思ってしまうところだ.

ここでも,なんとなく結局は,習うより慣れろなのだろうな,と思う.様々な性質を持った人が,互いに混じりあって,そんな環境にいる自分に慣れるということ,自分の肌で学ぶということをできるようにしたいし,自分もそのいちピースになれたらなと思っている.


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