[一語一会 #30] ロンギヌスの槍

(このシリーズ初の二部作の後編.前編は前の投稿を参照.)

本当に神は死んだのか,は重要であったらしい.その時はまだ神ではなかったかもしれないが.

本来は十字架にかけた際に,死を促進するために,脚を打つという風習だったようだが,イエス・キリストが最期,十字架にかけられたのちすでに亡くなっていたので,脚を打つ必要性はないと判断し,それでもキリストが死んでいることを敢えて確認するために,ロンギヌスが脇腹あたりに槍を指したのだという.

まぁもちろん本当にあったことかはわからない.
しかし,キリストがキリストとなった過程の一つではあるのだろう(キリスト教のことは詳しく知らないので,わからないが.)

さて,そのキリスト教をはじめとして,前編にて述べた通り,ニーチェをはじめとする哲学と産業革命以来の科学技術の進歩によって,神というものは死んだし,今後の進歩によって,その状況は続くことが想定される.
しかし,ここでは敢えてロンギヌスの槍,聖槍(Holy Lance)を刺してみようと思うのだ.

ここでは二点考えてみたい.

一つ目は,実は神は,キリスト教その他の宗教の神から,科学という「神」に化身しただけであった,と考えることはできまいか,ということだ.

一定数の人々は,科学が何でも解決できる,と神格化して,神のようなものだと本当に信じているように思われる.典型的には,完璧やゼロリスクを求める人たちである.例えば,昨今のmRNAワクチンをはじめとするワクチンの問題もそうであるし,新型コロナウイルスのパンデミックへの対応もそうだと思う.

人間は未だ生物(自然)であり,なおかつ生きる世界にも自然が介在せざるを得ないという点で,科学というツールを使えども,物事には常にリスクが伴う.そのリスクを前提にして,それを含めた理解と,よりよい文明の達成への努力をするのが科学であり,それが一定以上成功しているから「神は死んだ」のであって,そのような考え方ができない人にとっては,科学はそれまでの「神」と大した相違がなく,「神は死んだ」と言い切れないと思うのだ.

二つ目は,神は一面において確かに死んだが,全面的に死ぬのはこれからであるという考え方だ.前編においても述べたように,まだ答えの出ていない難問は多々ある.
しかし,意識や過ちといった問題に対して答えが出たとき,つまり,人間自体が科学によって超克されたとき,人々を迷い,悩ませてきた難問は,問題でなくなり,宗教的な意味での神がなくなるということだ.
科学がかなり発展しているように思われる現代においても,宗教が社会においてある程度役割を残していることを考えても,実は,神は一面でしか死んでいなかったのだ,ということである.

この程度の論でも,単純に神が死んだとは限らないということが示唆される.

結論へ移ろう.
「神は死んだ」と思考停止しないことが重要だ.私が勉強不足であることは間違いない.思い込みもきっとある.それでも,今とこれからの社会を考え,創っていくうえで,言葉尻だけでとらえないことを肝に銘じたい.

ロンギヌスの槍を振るう勇気を持とう.

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