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[一語一会 #31] ジョロウグモ

蜘蛛には足が8本ある.

それではなぜ私たちには手足が4本しかないのだろう.
例えば,乙武洋匡さんのように手足が一つもない人もいれば,全てではなく1本しかない,2本しかないなど,バリエーションはあるだろうけれど,とにかく私たち人間と多くの哺乳類動物は手足含めても4本以下だ.

一方で,例えば,常に杖を使って生活している人は,その杖がその人の手となり,足となる.これは別に比喩的にそうということではなくて,脳のニューロンの再結合によって,杖がその人の新たな器官として利用できるようになるのだ(と聞いたことがある).
この現象は,自転車や車の運転,その他の道具の利用にもあてはまることで,プロテニス選手にとってのテニスラケット,野球選手にとってのグローブやバット(もしかしたらボールも)はすでに身体の一部である可能性が高い.

また,義手については,例えば,脳神経細胞の信号を電気的に受信して,それまでの生物学的な腕と似たように動かせるくらいには技術が発展してきているという.しかも,動物実験では,アメリカにいるサルが,京都にロボットアームを置いて,それを動かす訓練をしたら,大体は思い通りに動かせるようになったという実験結果が出ているという(ハラリのサピエンス全史で読んだ).

うむ,人間も手足を8本持てるはずだ.
必要かどうかは置いておいて(*意識は基本的に一点集中型でできているようなので,マルチタスクのために使えるかといえば否であるため.)

蜘蛛は8本の手足を生まれ持っているから,それを自在に動かし,使っていくことには困らないのだろうが,そう考えると,つまり蜘蛛と私たちが生きる知覚世界はかなり違っている可能性が高いのだなと思うわけだ.

さらに妄想を進めよう.
蜘蛛も種類によって違うわけだが,例えば,巣の張り方にも違いがある.
ジョロウグモ,私は見たことがあったかもわからないが(コガネグモは家の近くによく巣を張る場所があったので印象に残っている),その巣は大きいものらしい.もちろん,小さい巣を張る蜘蛛もいるしたぶん,巣を張らない蜘蛛も存在する.
さて,その巣が私たち人間にとっての道具と同じ認識構造の下にあるとしたらどうだろう.

つまり,蜘蛛の巣は巣であるだけでなく,蜘蛛の一部であるということだ.例えば,ジョロウグモのように大きくて図形的にきれいな巣を張る蜘蛛であればそれだけ,認識範囲が広く,巣という自身の変化に敏感であると考えることはできまいか.逆に,小さく不規則な巣を張るような蜘蛛であれば,それほど道具的知覚に頼っていないと考えられるのではないか.

と,ここまで行くとさすがに想像でしかないわけだが,想像してみると意外と楽しいものだ.

それでは,私たちは次にどのような道具を持つのだろう.
それは,私たちのいったいどんな機能を強化(ないし劣化)させるものだろう.なんとなく,それは蜘蛛のようにより多くの手足を持ったり,巣を張ったりして,栄養の獲得・知覚領域の拡大をしたりするものではないような気はするが,きっと根本的にはそのようなものと対して相違ないような機能と仕組みを持っているのではないだろうか.

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