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[一語一会 #29] 神は死んだ

(このシリーズ初の二部作の前編.後編は次の投稿にてお届け予定.)

西洋哲学の大家ニーチェの言葉である.

理性の重視によって,神ないし宗教が,例えば科学にとって代われられるということを如実に表現した,いわゆる啓蒙時代の言葉だ.Wikipedia(日本語版)を参照すると虚無主義が関連しているということも言及されていた.
カルヴァン派的な思想や,産業革命を経て,資本主義による経済発展が進む中で,たびたび戦争も起こっていた頃でもある.

神は死んだ.

もちろん,今でも宗教を大切にされている方がいることは承知しているし,そのような方々の信仰を否定するものでは全くない.そんな宗教の大きな役割として,人々が生きている中でもよくわからない問(例えば,死んだらどうなるのかとか,私たちはなぜ生きているのかとか)に対して,常に仮説としての答えを提示してくれる,ということがある(最近メディア露出が増えている成田博士の受け売りではある).この点は,現代でも私たちに力を与えてくれる面があることは間違いない.

ただ,そのような問についても,とくに啓蒙時代における哲学および科学の進展によって,神に頼る必要がなくなったということなのだろうし,その傾向は時が進むにしたがってますます顕著になっているところではないだろうか.

例えば,生命科学の立場で見れば,自己と種,ひいては生物という形式の繁栄が,生きて,死んでいくことの目的と言えるかもしれない(死んだら,究極的には生命が地球にしばらく残るという以外には何もないが,それがすべてということでもある).
ここのところ少し関心があって読んでいたポール・ナースや高橋祥子さんの著書に述べられていたことだが,現状では私たちは生物としての進化・適応の機構のために死ななければならない.生きるという営みの中で,特に生殖というものによって,バリエーションを生み出し,環境変化に適応できる個体を少しでも多く増やすことに全力を注ぐのだ.

このように,考える手段は様々に得てきたわけである.

さらに今後は,楽観的な立場に立てば,科学の進歩によって,例えば「意識」の問題であったり,「過ち」の問題に進展がみられる可能性がそれなりにあると思われる.例えば,無意識,意識,潜在意識の生物学的・心理学的解明が進めば,人間の存在,卓越性ひいては自然とは何かに関する問への答えもより明らかになっていくだろう(卓越性は,生物として現実的にそうと思うから使ったまでで,他種生物を蔑視する意図ではないことは付け加えておく).
また,「過ち」は大戦終結後にはそれまでと比較して各段に減ったところだが,汎用AIなどが進歩すれば,さらに劇的に減ることだろう.例えば自動車運転時のミスが,完全自動運転の実現によってなくなっていくだろうし,もしかすると,誰かを殺したいという意志をもったとしても,意識への機械的介入によって操作・抑制されるようになるかもしれない.

神はもう死んだのだ.それは加速主義,産業革命以来の進歩史観によって,不可逆的なものとなっているし,今後もそれが続いていくのではないだろうか.

(続く)

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