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仮タイトル「首輪に鎖を、鎖の先には月を」

一章 追跡者の目

首輪には鎖を付けておくべきだ。飼っているものが怪物であるならば尚のこと。鎖を握りしめている時、制御されているのは自分自身なんじゃないかと思う瞬間がある。それは怪物から来る圧力のせいだけではない。安全な場所からこちらを覗き込む、多数の目。故も知らぬ無数の目が訴えてくる。

鎖を手放すなよ、と。

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平成が終わって三年目、安久3年の春。私、神田拳児(カンダ ケンジ)の新年度の滑り出しは「落選」から始まった。ダゴンの首輪、と仮題を付けたプロットを基に漫画原稿を持ち込んだが、どこも敷居が高かった。いや、読んでもらえただけマシだったのかもしれない。


「リアリティがなさすぎる」「卑猥すぎて青年誌でも載せられない」「性描写が特殊すぎる」「少年に執着しすぎている」 

散々な言われようだった。まぁ…仕方ない。使い込んだ眼鏡のレンズを拭きながら、短く溜息を吐く。止まっている時間は短い方が良い。すぐに机に向かい直す。


…会社を辞めて漫画を描き始めた身だ、ありがたい忠告だと思って受け止めるしかない。しかしリアリティが無い、という指摘は私を苦しめた。美しい少年との関係を失った事実を基にしたからだ。


平成が終わり、安久の年が始まって世間が浮き足立っていた頃、私は進まないペンを握りしめて机に向かっていた。最低限の画力は身に付いた自負があった。が、何を描くかは定まらなかった。何もしない日は1日が終わるのが遅いのに、カレンダーを見ると恐ろしい程月日が流れている。不安と諦めと、後悔と気楽さと。プラスとマイナスに分類できない生ぬるさ、息苦しさが常に纏わりついていた。

そんな中、安久二年に起きた男子高校生失踪事件は私の背中を強く押した。突き落とされた、というべきかもしれない。ペンはまるで獣のように暴れ出し、しがみついていたら一本の作品が書けていた。

事件の被害者、神田源十郎のことはよく知っている。数年会っていなかったが、まさか成長した姿をニュースで見ることになるとは思っていなかった。世間の反応は勝手なもので、海外への誘拐だろうとか、あのイケメンはどこの生徒だとか、親は誰だとか。個人情報が出し尽くされたと思うと「話題作りのための自演なんじゃないか」「ネット上の痴情のもつれじゃないか」と批判的な声も増えていった。

好き勝手騒いだと思うと、今度は大型芸能事務所の不祥事だとか、豚の病気だとか、野球選手の不倫だとか、あっという間に忘れ去ってしまう。情報が濁流のように流れていく。私はその中に溺れている。失踪事件の『濁り』が、粘りつくように私を掴み、どこにも進めない。

神田家から海岸側に謎の体液が続いていた、という話は私の兄……源十郎君の父から聞かされた。私は気がつくと、夜の海に来ていた。


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私には兄がいる。頭の回転が早くて要領が良い男だ。気難しい面があるが、上手く隠す社交性もある。綺麗な奥さんと早々に結婚して息子が1人居る。それが源十郎君だった。兄も奥さんも優秀なビジネスマンで多忙。私は家が近所だったこともあり、幼少期の源十郎君と過ごした時間は長い。

幼少期の源十郎君は顔が整った利発な子だなぁ、という印象だった。あっという間に大きくなって、私の書斎の本に興味を示した。読めない漢字だらけなのに、自分用のノートと電子辞書を片手に読み進めていた。新しい知識に貪欲で、ペースを落とさずに一日中読書をする姿を覚えている。

中性的な顔立ちとスラっとした身体つき。長い睫毛と指。甘える時の声。本を読んでいる時の真剣な横顔。どれも思い出せる。気を緩めると押し倒したくなるような欲求を抑える日々は長く続かなかった。源十郎君から誘惑されたと感じた時、私の理性は鎖を手放してしまった。

平成の終わりはあっという間だった。


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間違いが大きくならずに済んだ。あれで良かったんだと自分の過去を振り返る。春先の夜の海。青白い月と波。肯定も否定もされない、静かな空間に包まれた私は、何を見るでもなく海面に目を向けていた。

月が大きく感じる。目が疲れているのか、やけに眩しい。遠くに目をやると、一際明るい岩場に意識が奪われた。スポットライトが当たっているかのように輝いて見える。

少年のようにも少女のようにも見えるし、人魚のようにも見える


時間が停まったような感覚に捉われて、動けなかった。


意識が戻った時には、私は岩場に向かって駆け出していた。


二章 追われる者の尾

首輪には鎖を付けておくべきだ。それが怪物でなかったとしても、逃げ出さぬよう杭を打ち付けるべきだ。安全のためではなく、所有と支配を示すために。それは撓んだ鎖をいじらしく引っ張りながら訴えてくる。

手放さないで、と。


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私は下月(しもづき)と名乗り人間社会で生きている。安久三年の春、夜の海に向かって歩いていた。目的は、最近増えた眷属の観察。

眷属を増やしたのは200年ぶりくらいだろうか。人間界に紛れることを選んでからは、しばらく使っていない力だった。生物の体内に私の身体の一部を入れて侵食する。侵食した箇所を栄養にしながら「私」の身体の破片は進行と排泄を繰り返し、もとの生物の細胞と入れ替わる。侵食度合いはコントロールできるが、多くの場合は脳や神経中枢を2割程残して従順な奴隷として用いることが多かった。

なぜこの力を使わなくなったかと言うと「面倒だから」の一言に集約される。人間の区分でいう中世頃には、私も眷属を増やして武力や権力を強めていた時期もあった。今のように人間の管理が徹底されていなかったので手駒を増やしやすかったし、人間と集団の戦闘になっても私だけで安易に制圧できた。

単純な命の奪い合いであれば、現代でも人間に遅れを取ることは無い。武装されると時間はかかるが、生き延びるのはこちらだろう。厄介なのはその後で、継続して人間社会で生きていくことがとても面倒だ。新しい身体、氏名、戸籍、住所、過去、関係性、情報、etc etc、手に入れなければいけないものは多岐に渡り、労力が尋常ではない。

では元いた海に帰れば良いのか。その選択肢もあるが、別な面倒さがある。同族と支配の奪い合いがあり、海の別な種族との衝突も避けられない。会社の人間を相手にするより厄介だ。

同族には理解されなかったが、私は人間社会に関心を持った。身体が脆く、同じ種族内の統率もできない愚かな種族だと思っていたが、恐ろしい程に「欲望」が強い生物だと気が付いた。無尽蔵に個体数や生息圏を広げようとし、万物を食糧に変えようとする。自分達で勝手に作った非合理な妄想を崇め、憤り、殺す事も厭わない。まるで理解できなかった。こんな種族は長続きしないだろう、と思っていたが今や陸の支配者候補だと言わんばかりに繁栄している。

特に信じられなかったのは、自分達とは明らかに異なる外なる者…明らかに別次元の『なにか』…であろうと自分達の都合の良い形で解釈し、崇拝し、恩恵に肖ろうとする姿勢。生物は本能的に知らないモノ、理解できないモノは警戒するのが当然だと思っていたが人間はそれすらも自分達の欲望の渦に巻き込んでしまう。我々が『古き者』と呼ぶ深海の存在にも信者がいると知った時は恐ろしさを感じた。あれが何なのか、何も理解していないであろうに。

人間社会に紛れるようになってから、その異常性をより理解した。見えないものまで解き明かし、見えている宇宙の星まで我が物にしようとする。知識への貪欲さ。我々同族には無い文化だった。初めは陳腐な妄想だと思っていたが、一定の再現性を持ってこの世界の真理を探っている。

退屈凌ぎに多様な学問書に目を通していたが、気が付くと私自身も「我々は何者なのか」と考えるようになってしまった。これが知識の果実であり、人間を狂わせている毒なのかもしれない。

我々…便宜上「深海種」とでも名乗ろう…は主な生活圏が海であり、人間が観測する生態系には属していない。自分で記憶しているだけでも私は三千年は生存している。明らかに地球上の生物とは構造が異なるが、強いて言うなら魚類に近い特徴を持つ。深海種は食事も必要としないが、体細胞の再生、生成をするには他生物を取り込むのが効率が良い。私は今人間の身体を再現しているが、数秒で強靭な鱗やヒレを出すことも、粘性のある触手を出すこともできる。過去に取り込んだ体組織を再現し、組み替えて新たに生成することもできる。

人間達の書物から我々深海種の特徴を分析し仮説を立てた。我々は寄生虫に近い生態なのではないか。恐らく数万年前に地球に飛来し、適応するために地球生物の体内に入り一体化し、操作することで数を増やした。生物の進化に合わせて生き残り、その個体の一つが私自身なのではないか。

妄想だが、例えば人間達が神と呼んでいる理外の存在も、我々深海種と同じように地球外から現れてこの星に適応しただけの存在なのではないか。

私が把握しているだけでも、理外の存在は多数いる。我々より先に深海に居たと思われる古い者、人間社会に紛れている形を持たない者、この世のものではない『門』を通して別な空間から干渉してくる者、山の主、地底の目、風の産み手、etc… 明らかに地球の生物の規格を超えた何かではあるが、互いに衝突を避けている。

奴らが何者か、なんてことを考える同族は居なかったが「関わらないべきだ」ということは本能が理解していた。不思議なことに、人間はそれらの存在を示唆するような物語が好きなようだ。神話、という形で多数書物に残されていた。人間は、自分たちの想定する規格に収まらないものを崇める習性があるらしい。

もしかすると、我々は元々一つの存在から分化しているのか?そう仮定すると……そんな妄想の終着点は決まっている。「そうだとしたらなんだ」と。毒と酔いが回った知能も、まだ正常に動く部分があるらしい。

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夜の海。浅瀬にある岩場から月を眺める眷属。私は洞窟に戻るよう合図を送る。


海辺の洞窟に着くと、眷属のアオイはゆっくりと歩み寄ってくる。元々は、小柄な人間の少年である。まだ身体の制御に慣れていないようで、大部分が人間のまま海洋種のヒレや鱗が混在している。挿入した私の欠片の量が少なかったせいもあるかもしれない。

恍惚とした、人間のような仕草ですり寄ってくる。万が一人間に目撃されると面倒なので、なるべくレインコートを着るように指示して、顔の形も少し変えてある。目撃者が少数であれば海の底に消すが、周辺を捜索されると面倒なので最終手段にしたい。アオイはまだ自分の意思で身体の変化がコントロールしきれないので海での生活は難しく、洞窟や浅瀬に身を潜ませている。深海に行ける段階まで侵食が進むまでは、観察を継続した方がよさそうだ。

先日も、海辺に居た人間のカップルを襲ってしまったようで、洞窟の奥には男の骨が綺麗に並べてあった。女の方は肉ごと乱雑に千切られ破片が洞窟内に飛び散っていた。服は綺麗な状態で保存されていて、時折自分で着ていた。人間の頃の意識が混濁しているのだろう。

頭を撫で、無駄に人間を殺さないよう伝える。アオイは潤んだ瞳で頷き、繰り返し何かを呟いている。従順だが、頻繁に接触を求めてくるのは今後改善しなければいけない。首筋を甘く噛むと甲高い嬌声をあげ、胸元を抑える癖は人間だった頃と変わらない。


躾を兼ねて体液の挿入を終え、洞窟を後にした。

私は防波堤に座り、月を眺めていた。遠くから、アオイの視線を感じる。私はそれに気付かないフリをする。これが間違いだったのかもしれない。


背後に人間の足音



深夜の海岸。音の重さからして、相手は人間1人だろう。殺す選択肢もあったが、アオイが変な学習をしても困る。私は人間の存在にも気付いていないフリをする。


私の背後で止まった足音は、しばらく動かなかった。


大きく青白い月が、こちらを覗き込むように我々を照らしていた。


三章 月の引き寄せ

私は神田 拳児。

私は今、何をしているのか。走っている。久々の全力疾走で全身は悲鳴をあげているが、無視する。何をしているか言葉にすると「海に恐ろしく美しく何かが居た気がして、全力で走っている」になる。なんとも滑稽だ。

距離は遠く、私も目が悪い。何かを見間違えて可能性は高いだろう。ただ、走らずにはいられなかった。何か、取り返しのつかない決定的なものがそこに在った気がした。

狂気とは制御不能な執着であり、愛とは狂気を鞘に納めたものだと思う。源流は同じものであり、形が違うだけなのではないかと思っている。今の私は、完全に狂気に走らされていた。


岩場が近くに見える防波堤までたどり着いたが、もう脚の感覚が無い。腹はずっと、千切れそうな痛みを訴えてくる。青白い月が、こちらを覗き込み近くに寄っているかのようだ。いつもより大きく、明るく感じる。私は肩で息をしながら、まっすぐに月を見る。

防波堤に座っている壮年の男も、静かに月を見ている。こんな真夜中に海に居る人間と、普段なら関わらない。しかし私は、自分の狂気と冷静さの間で揺れていた。気がついたら、声をかけていた。


「大きな、月ですね」


壮年の男は、チラリとこちらを見る。険しい表情をしている。不審なのはお互い様だが、怪しまれぬように最低限弁解せねばなるまい。何を伝えるか?人魚みたいな、少年みたいな何かを見ませんでしたか?それではこちらがおかしく思われてしまう。回らない頭でなんとか理論立てて言葉を続ける。


「この辺で散歩していた甥と逸れてしまって。見かけませんでしたか?高校生くらいの…」


壮年の男は立ち上がり、身体ごと振り向く。大きな月を背にしながら、困ったような作り笑いをしている。頭を掻きながら応える。


「いやぁ、ちょっとわかりませんね…」

「そうですか…あなたは夜釣りですかな?お散歩ですか?」

「えぇ、家が近くなのでちょっと散歩に…」

「そうですか、もし若者に尋ねられたら、私は家に戻っていると伝えてください。私は…神田と申します。それではこれで…」

「早く会えるといいですね」


私は人を探す仕草をしながらその場を離れた。そんなに怪しくはなかったはずだ。甥を探しているのも嘘ではない。疲れ切った頭で考える。


本当に源十郎君に会えたとして、私は何をするんだろうか。

さっきの恐ろしく美しい何かと対峙したとして、私は何ができるんだろうか。


その日は当然何も見つからず、疲れ切った私はなんとか帰宅し、玄関先で眠ってしまった。


大きな月が太陽のように輝きだし、全身が酷く冷たくなっていき、光の中で何者かがこちらを見ている夢を見た。やはり無理はすべきではない。夢の外の私はすっかり風邪をひいており、寝込むことになった。


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それからの私は運動不足解消と源十郎君を探すという名目で、定期的に夜の海を散歩するようになった。あの美しい何かを見てから、悶々とする日が増えた。自分の欲求を筆に込め、ギトギトの醜いものを紙にぶつける。苦しいが、夢中で本を読み、漫画を描いていた時の熱量が戻った気がする。

散歩が習慣になって2ヶ月が経った頃。その日は満月で、月がやけに明るかった。妙な胸騒ぎがして、以前夢中で走った岩場付近に向かう。相変わらず月が大きく見える。ずっと見つめていると、魅入られてしまうような感覚になる。

ねぢっ……

背後で高い粘度の液体が溢れた音がする。夜の海岸で、背後に得体の知れない音。脳から、背骨から全身に、冷えた痺れのような感覚が疾る。本能が命の危機を警告している。心臓は急激に脈打ち、頭で考える前に身体が動いた。素早く振り向き、重心が下がる。

レインコートを被った青年…?がこちらを見ていた。夜なので細部は見えないが、月光が輪郭をなぞる。細く整った、はっきりとした顔立ち。暗いせいなのか、美しさに魅せられているせいなのかわからないが、全体的に濡れているような、艶やかな光の反射を感じる。私の本能は訴えている。

相手は、人間じゃないかもしれない。

パッと見れば目の前にいるのは綺麗な人間だ。足元に滑った体液が滴っているように見えるのも、波のせいかもしれない。首元が爬虫類のような滑らかな皮膚に見えるのも下に着ている衣服かもしれない。そしてこちらをじっとりと見つめる瞳。虹彩が明らかに人間離れしているが、そういうデザインのコンタクトかもしれない。私も疲れているし、全て気のせいかもしれないとバイアスがかかる。それを掻き消すような大きな警告音が脳内に響いている。逃げろ、と

その異質な存在は、どうしたの?と言わんばかりに首を横に傾げ微笑み、短く舌を出し下唇を湿らせる。

……男性は生命の危機を感じた時、子孫を残そうと急激に勃起し射精することがある。俗に疲れマラと呼ばれている現象もその延長だそうだが……

その時の私は、強烈に興奮し、男根は若い頃のように熱り立っていた。性欲なのか生存本能なのか、あるいは両方なのか。自分でもわけが分かってはいなかった。自分の心臓の音がうるさすぎて波の音も聞こえない。このままでは脳が焼け切れるんじゃないか。息を吐くことを忘れていた身体は限界を迎え、私の意思を無視して急激に呼吸を再開する。混乱した脳は、何か言わなければと言葉を押し出した。


「ひっ、人を探し…て……」

「?」


少年にも見える恐ろしく美しい何かは、悪戯っぽく微笑みながら先ほどとは反対方向に首を傾げる。敵意はないのかもしれない。私は言葉を絞り出す。熊と遭遇した時は目を合わせて話しかけ続けるんが良い、と教わったがその感覚の延長だったのかもしれない。

「カンダ…探している…人を、探して…」

「カンダ…?」


喋った。声変わりしていない子供のような、真っ直ぐで幼い声。気が動転していた私は、徐々に冷静さを取り戻す。そうだ。相手は人間だし、もしかしたら観光にきている海外の子なのかもしれない。異質な雰囲気もそれなら納得できる。

身体の震えも寒さからくるものだろう。グッと力を入れ、平静を装いながら言葉を選ぶ。

「私は、ケンジ。カンダという男の子を、探しています」

「ケンジ…」

「そう、私、ケンジ。貴方は…?」


「アー……アオイ」

「アオイさんね。時間も遅いから、気を付けてね。じゃあ私はこれで」


「コレデ…?」


私の本能は、早く立ち去るべきだと急かしてくる。しかし目の前で無邪気に首を傾げ、時折月を見つめるアオイと言う存在に魅入ってしまっていた。我に帰り、別れを切り出す。

「私、家に帰る。バイバイ。さようなら」

子供にするように、手を振る。微笑んでいたアオイが急に悲しそうな表情になったかと思うと、迷いのない足取りで顔を近づけてくる。すんすんと私を嗅ぎ始めた。

「バイバイ?」

耳元に、幼い声が突き刺さる。

「また、また来る、今日はバイバイ。また来るから」

「また来る?」

「そう、また散歩に来るから。じゃあね」

アオイの表情が明るくなり、こちらと同じように手を振る。その場を離れた私は、足の震えを抑えきれず道路に座り込んでしまった。



なぜあんな約束をしたのか。そもそも、アオイと名乗っていたあれはなんなのか。


自分でもどう整理して良いのか分からなくなっていた。人間にしては不自然だろう、いや人外の存在なんてナンセンスな話があるか、じゃああれはなんだったのか、綺麗さに気が動転していただけだろう、etc… 脳内の話し合いは決着が付かず、気がついたら自宅の玄関先で気絶していた。


その日も、大きな月に身を照らされる夢を見た。身体中の鈍痛と発熱した時のような苦しさに身を捩っていた。

翌日目を覚ますと、疲労感が全身を包んでいる。嫌な感覚に気付いて自分の下半身へ手をかざすと、信じられないくらい、ドロドロに汚してしまっていた。


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それからの私は、取り憑かれたように筆が奔った。創作意欲が刺激された、と言えば聞こえは良いが実態は『発情』に近い。湧き上がる興奮を制御しきれず、発散する方法も分からず、どうしようもなく紙の世界に興奮をぶつけている。艶かしい肌、月を背にした構図、指先の美しさ、目線、ぬめりに包まれた腰と脚……

艶やかなイメージが脳に張り付いている。イメージを再現しきれない自分の画力に憤りを感じながら、限界を超えて執筆を続けた。

妄想の中のアオイは、人間離れした淫らな怪物だ。人間の女性器と男性器を似せて作られた器官を持ちながら、それと別に捕食の為の開口部がある。中には無数の触手と小さな歯が隙間なく並び、強烈な甘い匂いを出しながらニチャニチャと常時うねっている。粘土の高い体液を浴びせられながら、恐怖と興奮で狂った人間をゆっくり飲み込んで行く。

触手はサイズも形状も多様で、穴という穴を蹂躙する。耳や鼻から脳をくすぐり、尿道から強行した触手からは全身へ降伏宣言が促され、人間はなす術なく自身を差し出す。口から侵入した長い舌は人間の胃まで舐めまわす。舌先で腸の内側を螺旋状にこそぎ取りながら肛門を貫通する。全身を排泄したような感覚を刻まれ人間側は「もう元の生活には戻れない」と身体が理解する。それから…


買い込んだはずの原稿用紙を使い切ってしまったことに気がつく。もう深夜になっていた。画材屋は開いていないし、もう寝るべきだ。しかし悶々とした自分の身体をどうすることもできず、散歩することにした。特に目的地は定めていなかったが、自然と海に向かっていた。


その日は満月ではないはずなのに、月がやけに明る大きく感じた。岩場を目指して走った日のようだった。


私はここで数ヶ月ぶりにアオイを目撃する。防波堤の近く。大きな月を背に、壮年の男と口付けを交わす姿を。



あぁ





あぁ……




4章 首輪に鎖を


下月(シモヅキ)と名乗って数年、誰も私の素性を詮索する者はいない。基になった男は孤立していたので、成り替わるには都合が良かった。今日も人間に紛れ、労働に忙殺されている。明日もそうだろう。滑稽な風習だが、人間社会を構成する大部分は労働だ。潜むには適している。

安久4年の冬。最近は物思いに耽ることが増えた。自分達の種族の源流や、これからのこと。以前は考えもしなかったが、人間の生活を真似るうちに毒されたのかもしれない。


もし、我々深海種や「神」と呼ばれるような存在が外宇宙由来の生物だとしたら…私も元々は他の生き物で、作り替えられた存在なのかもしれない。人間を侵食したことで意識が芽生えただけで、他の生物内にも当たり前のように我々と同種が潜んでいるのかもしれない。そうやって個体数を増やしたのだとすると、過去に居たはずの同族はどうなったのか。他の生物と同じように、死が訪れるのだろうか。世代交代?我々が?

私の最も古い記憶には、すでに同族も人間も居た。自分がどう産まれたのか覚えていないし、人間のように「親」と呼ばれる個体もおらず、当然のように存在していた。ではどこから?いつから?

深海種が眷属を増やす能力は、我々の手駒を増やす手段だと思っていた。しかしアオイのように、自我が色濃く残る個体が稀に発生する。仮に、私も元々は別な深海種の眷属だったと仮定すると…?

そう言えば過去に、そんな題材で小説を書いたことがあった。別な個体名を名乗っていた頃だ。成り替わり基が小説家だったのでなるべく文体を真似つつ、何冊か本を書いた。日に日に接触を望む人間が増えて面倒になり、今の個体に移った。この記憶は間違いなく私自身のものだ。


しかし仮に

別な個体に移ったと思っているだけで、元の個体にも意識は死に絶え新しく自分に近い個体を生み出しているだけだとしたら?寄生とも増殖とも生殖とも違う繁栄方法をとっているのだとしたら。「私」の存在をどう証明できるんだろうか。同じような疑問を持った人間の本も読んだことがあるが、当然感覚が違いすぎた。しかし共通点はあった。自分が何者なのか、と一番近くにある存在への、大きな疑問。


気がつくと深夜になっていた。事務所にいるのは自分だけ。無意識で残業をこなせる程、人間社会に馴染んでしまった自分へ失笑する。アオイの顔が浮かび、自宅に向かう。


「おかえりなさい。買ってきてくれた?」

「残業で買えなかった」

「えぇ〜じゃあ週末は服屋巡りも追加ね」


意識が安定し、人間への擬態も身体操作も身に付けたアオイは、海を離れ私と同居を始めた。人間社会を観察させるため、時折外出する。アオイは衣服や化粧品への関心が強いので、雑誌や服を買って帰るのが日課になっていた。

「新しいやつ、できるようになったんだよ。見ててね」


アオイはクルクルと回りながら、廊下へ出ていく。鼻歌を交えながら、一瞬姿を消したかと思うとウインクしながら部屋に戻ってくる。雑誌に載っていた、細身の女性モデルと同じ見た目で。サッと廊下に出ていき、今度はファッションショーのような歩き方で部屋に戻る。またもや全身の見た目が変わっており、今度はグラマラスなアメリカ系の女優になっている。人間だけではなく、下半身をイルカにしたり、上半身を蠍にしたり、目まぐるしい速度で早変化ショーが続く。

最後に基の…私の眷属になる前の姿…形になり、私の胸元に飛び込こみ抱きついてくる。

「どうだった?上手くなったでしょ?大体真似できるようになったよ」

アオイの自慢げな、浮かれた表情。これも練習したんだろうか。人間にしか見えない。


「充分でしょう。だがその人間の顔はやめておいた方が良い。関係者に見られたら面倒になる」

「あーそうだっけ。どうしようかな、昨日観たドラマの子の顔にしておこうかな」


一瞬でアオイの顔の形が変わる。見事だ。変化の瞬間が見えない程の速度と精度。私も0.5秒かからずに全身の形を変化させられるが、予兆なしでピンポイントに変化させるのは難しい。

「最近なんか疲れてない?たまには人間食べたら?栄養足りてないんじゃないの?」

脱ぎ捨てた衣服を畳むアオイ。私は視線を向けずにアオイへ返答する。

「細胞を消費していないから捕食の必要はない。やる気の問題だろう。飽きているのかもしれないな」

「え〜やる気出してよ。体液もらう時に遠慮しちゃうじゃん」

「お前にはもう必要ないだろう。遠慮してもらいたい。意識が安定してるようだし俺はもう寝る」

「はぁ〜〜?やだ!じゃあ安定してない!ヒトくわせろ!」


わざとらしく飛び跳ねるアオイを無視していたら、ベッドに押し倒される。長い舌が強引に口に入ってきて、こちらの舌を無理やり引き摺り出す。手で牛の乳を絞るように、巻きつけた舌の収縮を器用に使ってこちらの舌を吸い出す。アオイは以前から、口と舌を使った体液交換に固執している。

「…疲れている理由があるとすれば、これのせいかもしれない」


私の独り言は無視され


「はぁー…うまっ…ちがう、美味しい……ね、もう一回だけ。もう一回いいでしょ?」


アオイの求愛行動は再開される。


そのまま明け方まで、何度も体液を交換する。初めは、人間の構造を学びつつ身体操作・変化の練習のつもりで人間の性行為を真似ていた。今ではアオイは、人間に限らず多種多様な生物の構造を真似ながら行為に至るようになった。馬の下半身、タコのような上体、頭部は割れた西瓜のように左右に大きく開き、無数の肉の襞が暴れ、唾液を撒き散らす。

互いに絡めていたアオイの脚は形を変え、蟷螂の前脚のような形状になり私の骨盤を下を挟み砕く。私は下半身を再生させながら、右手に力を込めアオイの左肩付近を握り潰す。互いの骨や肉を蹂躙し再生するこの間も、舌を絡めることをやめない。

最近のアオイの『お気に入り』が始まる。

アオイは一旦人間の形に戻り、背骨を剥き出しにする。私は下の仙骨から順に、骨を握りつぶしていく。湿った固形物が鈍く擦れる音を出しながら、腰椎、胸椎と上へ。上へ、上へと骨を握り潰していく。頸椎を潰されてる時の「次は脳を潰されてしまう」という感覚が何よりも刺激的らしい。白目を剥き、声にならない絶叫が聞こえてくるような、醜い表情をしている。いつの間にか下半身には馬のペニスを生やしており、脳を握られながら射精をしていた。


「…大した再現だが、掃除の手間を考えて欲しいね」


……


絶頂の余韻で動かないアオイ。


考えてみれば、アオイと違って最近の私は身体変化させる速度が遅くなった。試しに全身に力を込めるが、鱗で覆うのに5秒ほどかかった。明らかに遅い。細胞の生成や再生ができると言っても、代謝が発生し劣化するのだろうか。他の生物のような「老い」が私にも…?あり得ない話ではない。もしかすると我々も千年単位で生きるだけの、か弱い生き物にすぎないのかもしれない。

人間の体細胞を再現するには、人間を吸収するのが効率が良い。アオイが言う様に、久々に人間を捕食すべきなのかもしれない。


潰れた死体の形状のまま、ゆっくりとアオイが動き出す。僅かに残った胸部に口を再生しながら「ウミ、週末は、海、行こ」と喋り出す。


夜の海、都合が良いかもしれない。




週末。日中は大量の衣類と雑誌を買い込み、夕方には海を見に行った。「ちょっと泳いで行くから、先に帰ってていいよ!」と、買ったばかりの水着に着替えて海へ走り出すアオイ。人間としての言動も安定しているので心配は無さそうだ。

その日の夜。まだ帰宅しないアオイを迎えに夜の海へ向かう。

青白い、大きな月が出ている。眩しく感じる。そういえば、ここ千年の中で『月が地球に最も近づく日』が迫っているらしい。人間達は途方もない話が好きなようだ。月を見つめていると、あの日のように背後に足音が聞こえる。



私は「神田」と名乗る男と再開した。


5章 鎖の先には火薬を


「あれから、おかげさまで甥と再会できました。そして会社を立ち上げまして…何かの縁です、よろしければお食事でもどうですか?名刺の住所が自宅兼事務所なので、いつでもどうぞ!」


海辺で再開した男、神田拳児から名刺を受け取る。こちらも名刺を差し出す。

「下月です。お仕事でもご縁を頂ければ幸いです」


あの日、海でカンダという名前を聞いてから一つ仮説を立てていた。拳児という男が仮にアオイ…元の名前は神田源十郎…の親族だった場合、対応が必要になる。アオイの顔はどう見ても神田源十郎には見えないが、体型は似通っている。血の繋がりとか、私に理解できない何かの感覚でこちらを疑ってくる可能性がある。アオイ側も何かのシンパシーを感じ接触を望むかもしれない。そうなると厄介だ。この男を消すのは簡単だが、私とアオイ2人で生活圏を変える手間は面倒だ。

そして今回「甥が見つかった」と発言があった。仮説通りであれば、神田源十郎が見つかったということになる。これはいくつか可能性がある。

①別な同種が源十郎に成り替わっている

②アオイが自身の分身になる個体を作り出していた

③日中、アオイが源十郎となり接触していた

④見つかったのは嘘であり、私に対して何らかの疑いをかけている


①か②の場合、その源十郎と名乗る個体と接触し意思確認を行いたい。互いに生活圏を荒らされたくはないはずだ。場合によっては戦闘になる可能性がある。

③の場合はアオイと今後の生活について話し合わねばならないだろう。④の場合は…


私の擬態を見破る人間は、過去にも数人だけいた。それらは当然消してきた。

私は全ての可能性を考慮し、神田拳児の自宅を訪ねることにした。日時を確認し、週末に訪問することになった。久々に、人間を捕食する日になるかもしれない。


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その夜、アオイには「接待で出かけてくる」と伝えた。アオイは「じゃあ夜のお散歩してくる」と早速着替えを始めた。姿を自由に変えられても、服や化粧は人間と同じ方式じゃないと満足しないようだ。


3階建、白を基調にした新築の戸建て住宅。入り口には「神田」の表札と、真新しい法人看板が並んでいる。

「お待ちしておりました。料理が冷める前にぜひどうぞ」


相変わらず輝きの無い瞳だが、敵意は感じない。神田拳児はエプロンで手を拭いながら、慣れた手付きで料理を並べている。


落ち着いた雰囲気の広いリビングには応接用のソファー。絵画が飾られ、新調したての家具がならぶ。会社の設立と併せて新築で建てたのだろう。

「素敵なお家ですね」

「個人の会社ですから、事務所借りるくらいなら住んでしまおうと思いまして」

他愛のない会話を交わしながら、周辺視野で室内を見回す。


写真立てには、若い頃の神田拳児と、眩しい笑顔でポーズをとる源十郎が居た。


アオイの自宅は別な場所にあった。拳児は両親ではなく親戚の可能性が高い。


「広いお家ですが、お手伝いさんは何人いらっしゃるんです?」


「よしてくださいよ、独り身なので家事は全部私の仕事です。経費にしたいもんですな」

この家には1人…嘘ではないだろう。人間の気配がない。会話の流れ次第では、この男を消すことになるだろう。


酒と食事を進めながら、酔いが回り始めた拳児は語り始める。


「そうなんですよ。本当にかわいい甥でね。できるだけ一緒に居たかった。私はそれができなかった。手放してしまったんです。自分の理性を」

私は話を聞きながら、適度に頷く。放っておけば、こいつはこのまま眠りそうだ。


「喪失感…と言えば簡単ですけど、冷たい感情だけじゃないんです。熱く燃えるような、行き場の無い欲求みたいなものがずっと身体に纏わりついていた。苦しかった。でもね…やっと出会えたんです。私の熱を向かわせる先が」


「ほお、それは何よりです。歳を重ねると、そのありがたさがわかりますね」

心地よく喋れるよう、適度に相槌を続ける。拳児は半泣きになりながら語り続ける。


「気付いたんだ。私は欲しかったのは、愛とか、肉欲とか、そういう整ったものじゃなかった。強烈な、身を焦がすような怒りに、正気を保てないような熱量に支配されたかったんだ。怒りですよ。それだけが私の身体を、魂を、目に見えない何かを動かしてくれているんです」


「いや〜凄まじい熱量だ。何に対してその怒りを?」


「何でしょうね、説明が難しいな。この世界、いやこの空間かな?爆発したかったんです。大爆発。全てを吹き飛ばすような。いらないんですよ全部。貴方は優秀そうだからなぁ、ちょっと分かってもらえませんかもしれませんね」


「いえいえ私なんて、毎日残業の身ですよ」

神田は次の酒を開けながら、ギラギラした目で語る。


「いやぁ下月さん、私にはわかりますよ。貴方のその落ち着き、雰囲気、只者じゃない。成熟した知性を感じます。羨ましいなぁ。私はそうなれないのですよ。しがみつくような、泥を泳ぐような人生になってしまった。どこへも行けないのです。もう」


「飲み過ぎじゃないですか?水持ってきましょうか?」


私は静かに、コップに水を用意する。この男が静かになったら、捕食して帰ろう。交流を持つと面倒そうだ。


「下月さん、バカな話だと思って聞いてくださいよ。私は海で恐ろしい程美しいものを見た。同時に、絶対に許してはいけない、恐ろしいものも見てしまった。私は狂ったように働き始めました。投資を再開して短期間で何度も危ない橋を渡って、その合間に絵を描いた。誰にも評価されないけどね、金は集まった。投資の力です。少し名前が売れてくると、ついでのように絵を褒めていく連中が増える。何もわかっていないくせに、おぉ、絵も描かれるんですね、だ。俺の人生はこれだ。投資なんて、金を集めるだけの道具だ。俺じゃない。俺の心じゃない。でも集めたんだ金を。心を殺して。絶対に許せないものへ、ぶつけるために。


…すみません、興奮しちゃって。私は馬鹿なんでね、街一帯を吹き飛ばせば、怒りの原因も吹き飛ぶんじゃないかって考えたんです。そんな夢物語を本気で実行しようと思ってね、実は両隣の家も私が買ったんです。バカな話でしょ。」


「すごい稼いだんですね。家を買うのと、神田さんの怒りと、とどんな関係が?」


「家中にびっしりと買い集めたんです。大量の爆発物。タンスの中身もシンクの下も天井裏も、全部です。家丸ごと爆弾にして増やしていけば、海の近くの家を全て吹き飛ばせないかと思いましてね。」


「はっはっは、芸術家のようなことを仰る」


「バカな話でしょう、私はもうね。お前を吹き飛ばせればなんでも











視界が無くなる。頭が吹き飛んだ。咄嗟に防御姿勢をとるが、身体変化が追いつかなかった。核の部分は生き残ったが、私の身体は約10cmの肉片を残して吹き飛んだ。家3軒分の爆薬は、周囲を巻き込んで見事な大爆破を起こした。


身体の再生が全く追いつかない。周囲の家は倒壊し、住民の死体が転がっている。突然のご馳走に肖ろうと鳥が集まってくる。私はその中の一羽のカラスにしがみつき、眼球から脳を侵食する。なりふり構わず、そのまま海へ向かった。

時刻は夜になっていた。人目を避けて身体を再生させ、新たな生活を始めよう。


ばしゃり、と力なく波打ち際に落ちるカラス。海水が朽ちかけた肉体に沁みる。我々は、やはり海にいるべきなのかもしれない。


大きな月がこちらを見ている。


いや、これは月ではない。アオイの目が、こちらを覗き込んでいた。ゆっくりと口を近づけてくる


私だということは感覚で伝わってるはずだ。体液を分け与えて再生を促進してくれるのか。私は触手を力なく伸ばす。


そう言えば、もうすぐ月が地球に一番近付く日がくるらしい。その日は久々に、2人で海を泳いでもいいかもしれない。


アオイの舌が、私を丸ごと包み飲みんだ。それが、下月としての最後の記憶になった。






6章 鎖の先には、月を


お母さん…?



気がつくと、夜の海に居た。見上げると、お母さんがこちらを見ている。


僕はアオイ。それは覚えていて、後のことはどうでも良かった。今はお母さんがいるから、それでいい。


いや、よく見たらあれはお母さんじゃない。お母さんの目は、もっと大きい。なんだっけあれは


月だ。お母さんに似てるけど、ちょっと違うやつ。お友達かもしれない。


ジーッと空を見ていると、青白くて大きな瞳が空を覆う。お母さんだ!ぐわんっ…って大きくまわって、真っ直ぐに目が合う。お母さんの光を浴びていると、なんだか頭がスッキリして、からだも元気になる。


遠くの街からは炎が上がっていて、明るくてなんだか楽しそうだった。でも僕は、海に行かなきゃいけない。何をするんだっけ?お母さん?


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翌日からのニュースは、住宅12棟を巻き込んだ大爆破が年末の怪事件として取り上げられた。

安久5年1月になると、話題はスーパームーンのニュースへと移り変わり、誰も怪事件の話をしなくなった。



大きな、青白い月は、時折街を見ていた。







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