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能登半島地震  5


平安時代末期、平清盛によって栄華を極めた平家は、文治元年(1185)壇ノ浦の合戦で源義経率いる源氏軍勢に破れ、この時、平家団結の象徴であった安徳天皇は御歳八歳で二位の尼に抱かれ入水する。平家方生存者の殆どは、鎌倉幕府の厳しい追求の中、離散の生活を始めた。
生存者中最高重臣であった平大納言時忠は、源義経との約束により能登の地へ配流され、文治五年二月二十四日この地で没す。

当家の初代は文治元年(1185)、能登に配流された平大納言時忠。時忠の子、時国の代より当地で農耕を営み、時国村を成した。時を経て天正九年(1582)、能登は加賀前田藩領に、その後慶長十一年(1606)には時国村の一部が越中土方領となり、時国家は二重支配を受けることなった。

寛永十一年(1634)、十三代藤佐衛門時保は時国家を二家に分立し、当人は加賀藩領に居を定める。当家はその加賀藩領の時国家である。江戸時代を通して、山廻役、御塩懸相見役、御塩方吟味人役など藩の役職を代々受け継ぐとともに、農業、塩業、廻船業などを営んでいた。

 

単なる「豪農」でなかった時国家  網野善彦

 はじめて能登に行ったころ、私は能登を辺鄙で交通不便な地域と考えていた。実際、東京から能登に入るまでにはほぼ一日を必要とするという経験からだけでなく、両時国家がその祖先と伝えている平時忠の配流によっても知られるように、能登は古代から中世にかけて、罪人の流される「辺境」の地だったという周知の事実が、こうした。思い込みの背景にあった。
 また時国家についても、多数の下人、農奴または奴隷を駆使して中世的な名田経営を営む、名の名前を名字とした農奴主的な豪農という、通説的な見解以上の認識はまったく持っていなかったのである。
 そして最初の本格的な調査のさい、輪島から曾々木、時国家に向かうバスの車中から千枚田(輪島市の郊外にいまもその景観が保存されている棚田)を見て、その見事さに強い感銘を受けるとともに、奥能登は田地の少ない地という印象を持ち、やはり当時の常識通り、田畑の少ないのは貧しい地域と考えたことは、正直に告白しておかなくてはならない。
 今にして思えば、まことに失礼で誤った見方をしていたことになるが、当初、私はこうした思いこみを持って、奥能登と時国家の調査を始めたのである。一緒に調査に入ったメンバーもおそらくそれほど違いはなかったと思う。
 しかし上時国家から新たに大量の文書が見出され、調査・整理がかなり長びくことが確実になったころから、調査を誤りなく進めるためという趣旨で、月島分室で刊行した日本常民文化研究所編「奥能登時国家文書」の読書・研究会が始められ、文書を一点一点読み進めるとともに、この思いこみは文字通り音をたてて崩れ去っていったのである。
 


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