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"責任回避社会"日本の行末は?

まとめ

①責任回避の為に常に他人をdisる国民性は、匿名で責任回避しやすいネット村社会で強化され悪化した。
②責任回避で、日本社会はほとんどの説明がつく。

日本人の行動原理の大半は、責任を回避するという原理により説明可能であるという発見を、ふと海外滞在で閃いたので、ここに記しておきたいと思い、海外のカフェでiPadとキーボードを走らせている。

根本的に他人をやたらに批判したがらない外国人と、やたらと同族を批判したがる日本人

東南アジアなどの発展国にふと滞在してみると、国にもよるが極めて人々の行動は自由で、端的にいうと人目を気にしている行動が見られない。店員から警察や役所に至るまで、ふてぶてしく椅子やソファに寝そべり、スマホをいじりながら、些細なスマホアプリに夢中になったり動画にうつつを抜かして、まるで家でくつろぐかのようだ。もちろん人生は一度きりで自分に使える時間は多ければ多いほどいいが、日本社会ならたちまち袋叩きであり、ネット村社会の今、迷惑系Youtuberなどが盗撮してネットではむしろ称賛される様が想像できる。つまりは戦時中の1億総玉砕の全体主義と何ら変わらない、息苦しいディストピアな日常が広がっている。出る杭は打つ、ハミダシモノを叩く、軍隊同様に足並み揃えないものを非難することが正当化される村社会をやめられない日本社会。

しゃにむに他人を非難したがるのは、他人に物事の責任を押し付けたいからであり、一億総責任回避行動をとる日本社会

海外で日本よりくつろぐ様が確認できるのは、それらの責任を自分で取り、主体的に生きているからに他ならない。誰からも責任の的当てにされないから自由な振る舞いができるように思う。日本で人目を気にせずに自由な振る舞いをしたら叩かれるのは、なんとかして行動や生活や人生全般に対する責任を他人に少しでもなすりつけて「楽をしよう」とする日本人が多いからであろうと思う。それほど日本社会では、日本社会固有の重すぎる「責任」を他人にとってもらおうとする態度が大きく、「お客様は神様です」と言われた昭和や平成?に至るまで、少しでも自分の非を他人の非にすり替えて押し付けて、自分が主体的になんらかのアクションをとらなくても、他人が助けてくれることを期待するような社会になってしまっている。

もちろん、海外では主体的に自分の意志主張を提示しないと、誰も動かないし「責任」はとってくれない

例えば、注文した料理が間違っていても大袈裟に謝りもしないし誰も確認しにこない。ツアーの集合時間が間違っていても自分から言わないと知らされないこともある。コインランドリーではコインしか使えないが両替機なんてない。とあるスーパーではトイレの鍵も壊れていてかからないし、部屋のコンセントは崩壊寸前。ドアのカギも壊れかかっているが平気で部屋が提供される。つまり逆を返すと、それらにいちいち文句をつけるような人間はほぼ存在していないのである。日本社会のような鬱苦しい思いやりという「責任」の押し付け合いが存在していないから、自分のケツは自分で拭く。だから無駄に責任の範囲を押し広げて、他人の一挙手一投足に対していちいち批判することで、他人に非を作り出して、自分の人生に対する責任を他人に押し付ける、半ば幼稚で未熟な精神性が通用しないのである。
この仕草は特に日本女性に当てはまり、「合法的」責任回避性ゆえに超優遇された女尊男卑社会日本の正体がここに掴めるように思う。自由に生きられない「責任」は自分で取るべきなのに、それを相手の非にして「責任」を回避する。自分にも他人にも不満のまま一度きりの人生をふいにする。それが残念な典型的日本人の生き方ではないか。

海外では自分の生活の責任を主体的に自分から取りに行くから、いちいち他人を批判して、他人に「責任」を押し付け、なんとかしてもらおうとする醜悪な行動様式は通用しない。だから日本人はいまだに外国人との交流が苦手なのではないかと思う。つまりうまくコミュニケーションが取れないことは自分の「責任」になってしまう。だけど外国人はそんなこと気にせず、通じるまで無理やり五感を駆使してコミュニケーションを取ってくるだろう。その時に、責任のなすりつけ合い社会の根本的な生きにくさに気づくのだ。

他人の粗探しで人生を捨てる日本人、自分の粗探しで人生を全うする外国人

これも優遇されきって、責任回避社会を維持する方向の「察する文化」を推進してきた日本女性に多いように思うが、他人を批判することで「責任」を他人に押し付けて、自分が主体的に動かずに他人を操作しよう動かそうとする仕草が大変多いように思う。
しかし、それは楽だが楽しくはない。自分も他人もNGだと人生楽しくない。
『人間は自由の刑に処せられている』とは、サルトルの有名な一文であるが、自由でいられる前提としては、他人がいちいち自分の人生の責任を押し付けるためにあれこれ言ってこないことが前提である。日本にはそれがないから自由でいられず、表向きは資本主義国家であるが、精神性は北の独裁国家や2024年にもなって侵略戦争をしている国家と同レベルの監視社会であり、監視の目的は他人の粗探しをして少しでも自分の人生の「責任」を押し付けようとする、幼稚な動機から来ていることに自覚的な日本人はどれだけ存在しているのだろうか。

自分のために他人の人生に夢中になるのではなく、自分のために自分の人生に夢中になろう。さすれば真に自分らしい人生が開ける

人の振り見て我がふり直せ、とは日本人に与えられた教訓であるように思う。醜悪な我慢比べゲームで外面ばかり取り繕い、我々の税金で仕事した気になるために司法装置が過剰反応する、鬱苦しい令和日本社会になってしまったのは、責任回避というキーワードで説明できるように思う。会社員なんてその典型ではないか。東南アジアのカフェやレストランを見ても、誰も客がいなくても、特に呼び込みもせず、売上のために演技せずに堂々とスマホいじりだ。他人に見られることが気にならないのは自分の性格や心理学的なものではなく、他人から何ら無駄に自分の人生にケチをつけられて、その結果なんらかの責任を押し付けられる心配がないからに他ならない。
この論理で行くと、周囲から信頼の象徴などと言われる会社員やら公務員やらというのは奴隷に他ならないのであって、自分で主体的に人生を生きることを決意せずに、他人に「責任」を押し付けて生きる典型的日本人であり、歴史上日本に登場する、御恩と奉公の関係のように、他人から「責任」を押し付けられない立派な社会的体裁を(土地の代わりに)与えられる一方で、自由は喪失する(武士として仕える)はセットなのではないか。
結局何も変わらない。主体的人権やら、個人主義やらは、この国には定着することがいまだに難しいのは、個人の問題ではなく、社会の問題である。心理学の問題ではなく、社会学の問題である。
日本社会で海外のように主体的に生きるためには、やはり「森の生活」のような隠居、隠れて生きよ、こそが真理なのかもしれない。もちろん海外移住も選択肢の一つとして十分である。ただし醜悪な相互監視社会では、精神的貧困は免れ得ない。たまには海外に出てリラックスするのが、まあ差し当たりは現実的な選択肢かもしれない。。。

※表紙は筆者撮影
ロケ地:某南国のビーチ

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