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邪馬台国が北九州にあったという説

佐賀県にある吉野ヶ里遺蹟の発掘調査でこれまで調べたことのない区域から石棺が発見されたと言う。

すわ邪馬台国確定かと思いきや、調査する方も別にそんなことは言っていない。

マスコミやら外野やらがそうだそうだと大騒ぎしているだけである。

所謂「卑弥呼の墓」がどこにあるのかと言うことで邪馬台国の場所が確定する。

だが、卑弥呼は魏志倭人伝の中にしか出て来ない。

他の文書に出て来ないのなら魏志倭人伝しか探れないので魏志倭人伝そのものを否定したところで卑弥呼は見つかる訳でもない。

結局魏志倭人伝をテキストにするしかない。

幸いにも邪馬台国と類推される遺蹟を調べ捲ってるのであと少しと言ったところなのだろうか。

しかし地中に埋もれている邪馬台国の遺蹟を全部暴く迄にどの位の時間が掛かるのだろうか。

分かったとしてももしかしたら日本が滅んでしまった後かも知れない。

と、思ったが結局そういうことはなくほぼ結論は出ているとしか言えない。

弥生時代辺りの集落ではかなり大きなものだというのが吉野ヶ里遺蹟ということなのだが、卑弥呼が大人数の従者と共に埋葬されたという魏志倭人伝の記述が裏打ちされなければ結局邪馬台国とは言えないのである。

※この記事を作成するに当たり二箇月程経ってしまったが、その間にも発掘調査の結果が出て来た。

石棺の中からは何にも発見されなかったようである。

当たり前で、そもそも卑弥呼は従者と共に埋葬されているのだ。

仮に卑弥呼の墓だとしてもその墓の周りに従者の遺骸が発見されねば卑弥呼とは言えないのだ。

結局吉野ヶ里遺蹟は邪馬台国でも何でもない弥生時代末期の集落の一つであると結論付けねばならない。

即ち、邪馬台国北九州説はここにて終了である。

と、書いたが今後福岡県や大分県または佐賀県のどこかで大規模集落の跡地が発見されればまた邪馬台国論争が巻き起こるかも知れない。

そして有力者とされる人間の墓に多くの人骨も発見されればそっちの方に傾く可能性も高い。

しかし、こういった作業は開発と共に散々やって来たので今後また大きな発見がなされることはないだろう。

今ある、出尽くされたもので結論を出すしかない。

今でも毎年古代の遺蹟や遺物は発掘されているのだが大発見には至ってない。

肝腎要なのは「多くの従者も殉葬された卑弥呼の墓」が発見されることなのである。

邪馬台国とされる纒向遺蹟というのがあるが、こちらも結局結論が出されないでいる。

この古墳は卑弥呼ではなく倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)のものとされる。

結局殉葬されていなければ箸墓古墳も卑弥呼のものですらないのである。

即ち、纒向遺蹟も邪馬台国ではないということになる。

結論的には30%程度なのだろう。

奈良県には古墳時代の遺蹟もあるから記録にあるもので類推するしかない。

全ては記録なのである。

単純に「邪馬台国」は「やまと」と読むのだから「やまと」のある場所を特定するしかない。

「やまと」と名づくところは各地に多いが、魏志倭人伝の記録による行程を参考に邪馬台国を探すしかない。

結局奈良県の昔の呼び名の「大和」を邪馬台国と結論付ける他ない。

たった30%程度の推測でも数独の解答のように導き出すしかないだろう。

個人的には邪馬台国は近畿地方の大和であるとそう思う。

いつか卑弥呼の墓が出て来るかも知れない。

ただもう、北九州説は切り捨ててもいいともう。

吉野ヶ里遺蹟ではもう出て来なかったのだから。


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