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卑弥呼は天照大神☀️

前回邪馬台国は北九州にはなかったという結論を個人的に出した。

それならば、最早天照大神についても結論を出すべきではないかと思う。

天照大神は言わずと知れた日本の皇祖神である。

天照大神の前に伊弉諾尊・伊弉冉尊(日本書紀ではこの表記)という二神が存在するが、天照大神より直系として現代の皇室に連なっているのでこちらを中心と考えるべきだろう。

素戔嗚尊や月読尊が皇室に連なっている訳ではない。

当然日本書紀には記されているから連綿と続いているのだというのは“史実”としては首を縦に振る訳にはいかないだろう。

所謂“正史”として出来たのは卑弥呼の時代から500年近く経ってからである。

今の令和の時代で戦国時代の文献を編纂するようなものである。

とはいうものの、戦国時代に関する文献も残っていたりするので古代のように検証不可という訳でもないが、日本書紀が出来た頃に於いても、数百年前の文献や伝承が残っていた可能性もあるので今のような難しさはないと思う。

歴史学なんてものは存在しないので「正邪」でしか物の価値は測れなかった時代だが、敗者がどれだけ暴虐非道であったかという誇張はあってもその敗者がいたとう記録は残っている。

長髄彦はいたのかどうかは果たして分からない。

熊襲武尊もいたかどうかは分からない。

しかし「敵」はいたのである。

敵がいたことで自分の存在が証明される。

倭の五王の武が南宋に朝貢する際に先祖代々より毛人含む国内の敵を一掃して支配したと報告しているのである。

因みに倭の五王について言うまでもないがこう考える。

(さん)は「ほめたたえる」、田別(ほむた、ほんだ)なので応神天皇。
(ちん)は「めずらしい」、歯別(みづは、めずら)なので反正天皇。
(せい)は名前の同一性が確認されないが安康天皇と雄略天皇の二人の父なので允恭天皇とされる。
(こう)は安康天皇だが、武の兄とされるのでこれに比類される。
(ぶ)は言うまでもなく幼(わかたける)なので雄略天皇。

と、まあここまで。

考古学の成果で天皇の実在性が証明されたりもするが、後どの位かけてこの倭の五王の全てを証明出来るのだろうかと思う。

日本書紀には“卑弥呼”が(使者を送って)魏に朝貢しに行ったという記述はない。

当たり前で自国初の歴史書なので自分達が中華の属国だったってことを書くこともないのである。

本田透がとある著作(忘れてしまった)の中で「歴史とは黒歴史を消す作業」と書いてあったような気がしたが、実際これで幕末明治の戊辰戦争時代に幕府軍側が東武皇帝(北白川宮能久親王)を擁立したという話もあって、結局幕府軍側が負けたのでこれすらも「なかったこと」にされてしまったのである。

こんなの擁立してしまったら文字通り「朝敵」にされてしまう。

もしも幕府軍が勝ったら東武皇帝が日本の天皇として国内では大政という元号で世界にアピールされていた可能性もあったのだろう。

幕府側はフランスの支援も受けていて列士満(レジマンrégiment)というフランスの軍に倣った部隊も作っている。

ある種のどさくさなので戦争に勝ったら自分の正統性をアピールすることが出来て、敗者がどれだけ汚くて酷かったかをこれでもかと描くことが出来るのである。

ただ、明治政府は脆弱で相変わらず不平士族はいっぱいいて西南戦争まで起こされてしまい沖縄では王朝時代の士族に県政を任せてしまうという失態もやらかしているので、完全な勝者と言う訳ではなかった。

結局明治政府は戊辰戦争以来から旧幕臣達を政府に迎え入れたりもして何とか和気藹藹としてやっていったのが実情だろう。

16代将軍とも言われる徳川家達なんかは明治から昭和にかけて貴族院議長までやるようになったのだから昭和まではっきり言えば江戸時代の影響力がまだまだあったと言うことである。

明治維新の頃の家達は6歳なので慶喜が引退した後に僅か6歳で徳川宗家の当主に就いているということになる…。

明治政府から帝国政府となっても中身はあんまり変わってなかったというのが実態だったのだろう。徳川家やその老中たちによる政治が行われなくなっただけでもっと広く幕府に従っていた諸藩らの子孫達も参加して行われた政権運営だったと思われる。

話は逸れたが、卑弥呼が何故天照大神なのかということなのだが、いくつか共通点を見出してみることにする。

  1. 古代日本の女性のリーダー

  2. 国が混乱した時に現れた

  3. 弟がいる

  4. 太陽に関する名前を持つ

1は言うまでもなく取り分け古代の内に目立った存在であり、カリスマである。

2は日本書紀だと隠れた天岩戸から現れた時に世界が明るくなったとあるし、魏志倭人伝なら擁立されてから倭国大乱が収まった。

3は日本書紀なら素戔嗚尊で魏志倭人伝でも弟が政治を取り持っていたと書かれていた。

4は卑弥呼とは書くが実際は媛子(日女子)という意味なので太陽神たる天照大神と性格は似る。

恐らくだが、日本書紀を編纂する際に当たり所謂漢籍を参考にしたのではと考えられる。というか、遙か古い自分達の国のことが書かれた歴史書は三国志他史記もそうであり、それを読み通して自分達の言い伝えにある天照大神や素戔嗚尊を卑弥呼や弟に準えさせたのではと考える他ないのだ。

日本書紀の編纂に携わった藤原不比等も三国志や帝紀や旧事を読み比べて「あれ?三国志に書いてある卑弥呼ってもしかして皇室に伝わる天照大神なんじゃないか?」と思ったに違いない。

不比等「でも卑弥呼って三国志の時代だし天照大神だってしちゃうと大陸の方が古いってことになっちゃうからそんなん癪に障るし神功皇后や百襲姫にして神武天皇がもっと古いってことにしてしまおう」と考えたんじゃなかろうか。

この不比等って名前も史(ふひと)と書く。

「史(ふひと)」は「史人(ふみひと)」の略で歴史書を編纂して纏める役目を負う人の名前なのだと推測出来るが後からそう呼ばれたのだろうと感じる。

不比等「神武天皇を入れることで卑弥呼と天照大神を分離することが出来たから神様はずっと神様のままでいられるし良かったあ…」

不比等「神武天皇入れちゃったし年代延ばすと辻褄合わなくなるからみんなそれぞれ100歳以上生きたことにしよう」

不比等「えっ?年齢延ばすより他の天皇を捏っち上げればいいじゃないかって?何言ってんだそんなことやったら必ず裏取って来るやつ出てくるだろ?」

不比等「ほれ日本書紀には一曰(あるふみにいわく)って書いておくからこれで信用性を担保できるだろ?」

とまあこんな感じで「天照大神」が誕生したのだろうと思う。

中華よりも日本の方が古いという古さ競争なんてあんまり意味はない。

日本が明治期にキリスト教的世界よりも古い皇紀を発明したことで結局本家本元の中華も黄帝を担ぎ出して「中国4000年の歴史」と言わざるを得なくなり、戦後に独立した朝鮮半島は「半万年」とまで主張するようになってしまった。

そして神話が否定されたら日本は縄文時代より歴史が長かったのだとまたこういう形を変えた古い歴史的主張をするようになってしまった。

縄文時代って時代区分にしたら石器時代なのにね。

そう、ドクターストーンのストーンワールドのことだ。

石器時代から、ゼロから文明を復興させるというものなのだろう。

将来研究が進めば卑弥呼=天照大神を紐づけることが出来て来るのかも知れない。


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