小説を書くようになって本当によかったと思えたこと

 私は現在、七月末に締め切りのある公募へむけて一本の長編小説の執筆に取り組んでいる最中です。

 執筆をはじめて二ヶ月近く。初稿を上げ、そこからまた第二稿に向けてブラッシュアップしている日々です。これだけ長いこと一本の作品と向き合いつづけたことは未だかつてなかったのですが、そのはじめての経験のなかで、たくさんの気づき・感じたことがありました。

 そのなかにはネガティブな感情も含まれています。「俺は才能の欠片もない塵屑だ」と深く落ち込んだりとか、執筆のために無理して仕事に影響が出たりとか、色々と問題はありますが、トータルして言えることは、自分は小説を書くようになってよかったということです。

 ここでは、わたしが小説を書くようになったことで、「小説以外のことに」主にいい影響があったことを挙げたいと思います。


前置き

(ここからしばらく、本題とは直接関係ない自分語りになるので、この前置きは読み飛ばしていただいて構いません)

 ここでまず、私が小説を書き始て、ここまで至るまでの経緯を、ごくごく簡単に説明させていただきたいとおもいます。

 私はある時期まで、文章というものが全くと言っていいほど書けませんでした。

 それには、私が学生時代から精神疾患を発症していることや、生来の完璧主義な性格などが関係しているのだとは思うのですが、なにか文章を書こうとするととにかく、その書き出しからしてどうしたらいいのか分からない。途中途中の言い回しでも躓いたり、また誤字脱字をしていないかも怖い。そして文章の終わらせかたも、うまくまとめなければと思うのですが、そんな方法をそもそも知らない、浮かばない。そんなわけで、たとえばレポート、課題、ブログからツイッターのツイート、果ては簡単なメモにいたるまで、「書く」ということができない時期が長らくあったのです。卒業論文も結局留年して二年かけてなんとか書き上げたほどでした。それはもう、「書く」ということへの一種の恐怖ですらあったのです。

 学生から社会人になってもその「書く」ことへの恐怖は消えないまま、三十代を迎えました。そんなあるとき、とあるきっかけがあり、私はその無謀な「書く」ということが無性にやりたくなります。その「きっかけ」についてはここでは詳細は省きますが(もしかしたらいずれ別記事で触れるかも知れません)、とにかくその衝動をもとに、私は「書き」はじめました。

 たしか最初は、五日間ほどかけたでしょうか。創作術の書籍や先人の文章などを参考にしながら、私は人生ではじめて、七千字の二次創作小説を書き上げたのでした。

 二次創作であるとはいえ、それは私が人生ではじめて、始めからお終いまで自力で書き上げた、(今読むと小説とも呼べないシロモノだけれど、当時の自分にとってはまぎれもなく)「小説」でした。

 その処女二次創作を端緒として私は、「小説」を書き上げて誰かに向けて披露する、という一連の流れに夢中になり、それから約一年間で六十作品ほどの二次創作小説を書き、WEBで公開していきました。その頃になると二次創作で表現できることへの限界を感じるようになり、一次創作にも短編から挑戦しはじめ、そして今年の三月から、公募のための長編執筆をはじめるに至ったのです。

(ここから本題に入ります)

 さて、そんな私が、小説を書きはじめて本当によかったと思えることが、以下になります。

1.書くようになった


 小説を書くようになってよかったことの第一は、「書くようになった」ことです。当たり前ですね。当たり前なんですが、自分にとってはこのことはとても重要な出来事でした。

 これをまた細分化するなら、文章を「書くことに抵抗がなくなった」ことと文章を「書く癖がついた」ことに分けられると思います。

・「書くことに抵抗がなくなった」

 先述のとおり、以前の私は簡単なメモすら満足にとれないくらい、「書く」行為に抵抗がありました。それが病気が原因か生来のものかは定かではありませんが、今思うに、「上手く書かなきゃ」「書き出しを上手くしなきゃ」「上手く終わらせなきゃ」などなど、とにかく「書きはじめたら完璧に書かなきゃいけない」というプレッシャーが強すぎたのだと思います。そんなのは、まるで一筆書きで世に公表できるような立派な絵を完成させようとするようなもので(出来る人は稀にいますが)、そりゃあ土台無理に決まっています。
 
 しかし、小説にかぎらずあらゆる文章を書かれている方には当然のこととは思いますが、なにかを「書く」にはまず「書いてみる」ことしか着手する方法はありません。まず書きたいことを思いつくままに書いてみたあとで、「上手く書けてないな」と感じたら気になるところを修正していけばいいのです。「書き出し下手だな」「終わらせかたひどいな」と思ったなら、考えるなり調べるなりしながら手を加えて少しずつマシにしていく。その、「書いてみる」ことへの気軽さと「書いたものを直していく」ことの気長さ。その二つの態度が同居してこそ「書く」という行為がなし得るのだと、私は小説を書くようになってから解釈するようになったのです。

 そのような解釈を得てから、私は実生活のなかでも「書く」ことに対する抵抗が格段に弱くなり、そのおかげで、仕事やプライベートにも様々ないい影響がありました。どんな影響があったのかは、あとの項目で述べていきたいと思います。

・「書く癖」がついた

 これも文章を書かれる方には当たり前のことと思いますが、ネタやアイデアを思いついたら、思いついたそばからすぐにメモにとることは、物書きとしての生命線とも言えるほど大切なことです。
 ものぐさな私は、なにか思いついたことや覚えておかなければならないことなどがあっても「あとでメモしておけばいいや」ぐらいに考えて後回しにしてしまうところがありました(今もあります)。二次創作を書き始めた当初もそんな調子でやっていたら、思いついたはずのネタもアイデアも、まぁものの見事に次から次へと忘れていきます。「昼食終わったらメモしようと思ってた、あの名作2万字SSになるはずだったネタは一体どこへ!?」なんてことは日常茶飯事なくらい、あらゆる思いつきが脳から雲散霧消してしまうのです。

 そんな失敗を繰り返し、少しずつ、少しずつ時間をかけて、私はメモの重要さ、その威力の絶大さを身を持って知っていくことになりました(最初から知っておけという話)。今ではもう、書き途中の作品用、書く予定の作品用(案が生まれるたびあたらしく用意)、なんでもメモ用、勉強・読書記録用、非常用など用途に応じただけの数のノートを常に携帯し、思いついたことがあればすぐにメモにとる癖がやっとついてきた、というところです。

 創作活動でのそうした姿勢は当然仕事にも活かされるようになり、上司や同僚に伝えたいことや気づいたことなどがあればすぐにメモにとるようになりました。

2.伝えられるようになった


 小説を書くようになってよかったことの二点目として、「伝えられるようになった」ことを挙げたいと思います。
 これは言い換えると、「伝えるすべを知った」、更に言えば「伝えられるかたちにまとめることができるようになった」とも表せられるかと思います。

 私は、自分の思ったことを言葉にして伝えることが非常に不得手でした。なにか伝えたいことがあるから口をひらくのに、話せば話すほど要領を得なくなる。話はまとまりがなく、冗長になり、伝えるべきことを十分に伝えられないままぐずぐずと終わってしまう。そういうことを人生のなかで幾度も繰り返すうちに、やがて伝えること自体を諦めて、口下手を通り越してほぼ無口になってしまっている自分が居ました。先述のとおり書くことにも苦手意識があったため、結果、どんなかたちでも意思表示をしようとしない人間になっていました。

 意思表示をしないことはもちろん社会で働いていくうえでもっとも望ましくないことですし、そもそも傍目から見て不気味です。私はいつしか、どんな環境に身を置いても孤立してしまうようになっていたのです。

 さて、なぜ私はそんなにも「伝える」ことが不得手だったのでしょう? ……とかつての自分を鑑みるに、その原因には、自分なりの「思考のしかた」を理解していなかったことがあったんじゃないかと思うのです。

 世のなかには色んな人が居て、色んな頭脳の型みたいなものがあります。「理系/文系」「陰キャ/陽キャ」のような分類の仕方は一般的かと思いますが(それが正しいかどうかはここでは問いません)、そういったものと同様に「思考のしかた」にも様々な分類があるように思うのです。

 たとえば「図式化」が得意な人が居ます。そうした人は、頭のなかにある種々の具体的な問題や事例を、抽象化し、図に起こすことに長けている人たち。学校の授業でも企業の説明会でも、内容を分かりやすい図に起こしてくれる人の存在は本当にありがたいですよね。ほかにも伝えたいことを絵にするのが上手い人なんかも同様です。私もそんな人たちに憧れますが、到底そんな物事を明瞭にできるような頭脳は持ち合わせていませんでした。

 また、「チャート化」して問題を整理することに長けている人も居ます。諸問題から主要なワードや要点を絞り込み、それらを論理的に組み立てていくことで伝えるべきことを簡潔かつ明瞭にできる人。かっこいいですね、憧れますね(2回目)。グループワークならかならず書記を務めて欲しい存在ですよね。でもやっぱり、私はそんな怜悧な思考も持ち合わせていませんでした。

 長いこと、私は自分に合った思考のしかたというものを、理解できていませんでした。だからメモのしようもなく、メモをとってみたとて後から振り返ってもまとめられようもなくて、途方に暮れて、伝えたいこと、伝えるべきことを、伝えるのを放棄しつづけてきたのです。

 しかし。それも、小説を書きはじめてからというもの、少しずつですが、着実に、改善されていったのです。

 先述したように、私は小説のためにメモをまめにとるようになったのに併行して、仕事上でもかなりメモにとるようになりました。ただ、そのメモの内容というと、伝えたいことを明確に書いたようなものではなくて、むしろだらだらしていて要領を得ないもので……たとえば以下のような文面です。

『やるせない。今日も◯◯がされていなかった。先週末から◯◯の作業だと聞かされていたのに、これで3日連続。いや、先週から数えれば4日連続か。週をまたいでこの体たらく。だから言ったのだ、この仕方で無理があるようであれば再度話し合ってほしいと。それがされず結局こうなり、待ちぼうけを食らうのは自分なのだ。落胆というべきか脱力感というべきか。もうとにかくアホらしくて仕方がない。事前に共通認識をもっておきたくて働きかけたはずなのに、まったくの無駄になってしまった。あぁあ』

 ……と、こんな調子です(かなりブラフは入れてます)。こんなものを毎日、下手したら一日につき2頁以上に渡って書き連ねたりしています。これはもはや、メモというより日記ですよね。愚痴日記。

 でも、この愚痴日記こそが、自分の「思考のしかた」の形式であるような気がするのです。要するに、まず最初に「やるせない」という感情が先にくる。それを吐き出さないことには、次の「今日も◯◯がされていなかった」という、具体的な問題の提示が出てこないのです。その後も「この体たらく」と悪態をついてから「無理があれば再度話し合って欲しい」とか、「アホらしくて仕方がない」からの「共通認識をもつため働きかけた」ことなどが出てきます。なんと言うべきか、「感情先行」とでも言ったらいいでしょうか。まず感情ありきで、あとから論ずるべき問題がついてくるのです。面倒くさい奴ですね。

 面倒くさいですが、でも、これをそのまま口に出して上司や同僚に言うわけにはいかないことくらいは、自分にだって分かります。とはいえ、これ以外の考えかたを自分は知らない。だから、沈黙するしかなかったわけです。そして、以前の自分はメモをとろうにもちゃんと完成されたかたちで書かなければと思っていたから、書くこともできなかったのです。

 しかし、小説を書きはじめて、とにかく「書いてみる」ことの大切さを知った自分は、思ったことを思った順に書いてみます。そして、こうした文章が出来上がります。感情こそ先走ってはいますが、でもこのなかにはしっかりと問題にするべきところは書かれています。「そうか、このままのかたちだと無理があるんだな。じゃあ、もっと無理のないかたちをいくつか考えて提案しよう」「再度上司にかけあって、共通認識をとろう」などなど、書いてあることから要点を引き出して考えることができるようになったのです。

 そのようにして、問題の要点を整理できるようになると、「俺はこういうことが上司に伝えたかったんだ」と目が見ひらかされるような思いになることがしばしばありました。そして、それを実際に伝える際にも、メモが手元にあるので比較的要領を得た伝えかたができるようになってきたのです。つまりは、ようやく意思表示を行えるようになっていったわけです。

 そうして、私は少しずつ積極的に意思表示ができるようになり、周囲からの信頼度も如実に上がり、次第に孤立も解消し……というほどまでは至っていないのですが、それでも以前に比べたら個人的に劇的な変化をとげたことは、たしかなのです。


3.インプットできるようになった

「インプット」というと普通に考えたら「知識・情報を頭に入れる」ことですよね。社会人として当然必要とされる日々の積み重ねなわけですが、私にはそれもできなかった。というより、しようとしなかった。する意味が分からなかったと言えるかも知れません。

 本は読みます。最低限は。仕事に必要な知識も入れます。最低限は。でもどれも、「最低限」で終わってしまうのは、それは私が自分のことを信用していないからでした。
「これ以上知識を詰め込んだところで、自分じゃ役に立てないからなぁ」
「いくらたくさん知識を入れたって、どうせ忘れちゃうだけだしなぁ」
「こんな難しい本読んでみたところで、どうせ理解できっこないしなぁ」
 そんな意識が、自分自身をプラスアルファのインプットから遠ざけていたのです。インプットを積み重ねてなにかの価値を創造できる(アウトプットにつなげられる)ような人にずっと憧れを持ちながら、そんなの自分ではどうせできっこないと、挑戦する前から諦めて(挑戦するという発想すらなかったかも知れません)、そして結局なにもしない。酒を飲む。ゲームをする。意味もなくツイッターをぼーっと眺めるだけの、無為な日々。

 でも、そんな日々が変わったのも、小説を書きはじめたことがきっかけでした。なにしろ小説は、あらゆるインプットがネタになり、アイデアになり、ヒントになります。怪獣映画を見ているときに突如としてラブロマンスのアイデアが浮かぶことがあります(実際ありました)。ビジネス書を読んでいたはずなのにそこから感銘を受けて、隠し事をしすぎて破滅してしまう登場人物を思いつくこともあります(実際ありました)。街なかで聞こえてきた車の音や鳥の囀りなんかから、小説の描写がふっと浮かんでくることだってあるでしょう。また、分からないこと・理解できないことに直面したとしても、それについて「考えること」「感じること」自体が小説の種になり得ることだってあるのです。

 こうなってくると、今まで考えてきた「インプット」とは見かたが変わってきます。「インプット」といえば、仕事のために、あるいは私生活のために、仕入れた情報を直接効果的に役立てるものであると、少なくとも私はそう考えていました。けれど、小説に関しての「インプット」は、ただ直接役立てるものではなくて、もしかしたら間接的に、更にはもっともっと遠回りして何年も経ってから活きてくる可能性があるものです。そして、その「インプット」の媒体は、なんでもいいのです。それこそなんでも。本でもマンガでもドラマでも雑誌でも新聞でも映画でも演劇でも美術でもライブでも落語でもスポーツでもスポーツ観戦でもゲームでもアウトドアでもインドアでも筋トレでも散歩でも何もせずぼーっとすることでも食べることでも寝ることでも性的なことでもなんでも、普通に生活し営んでいるすべてのことが、有用な「インプット」となり得るわけです。

 長くなりましたが、こんなふうに考えられるようになると、「インプット」へのハードルがより低く、そして楽しいものになります。なにしろ、難しかったら「むずかしー」、つまらなかったら「つまんねーねみー」、と思えばいいのですから。その「思った」こと自体が、感じたことすべてが、小説の種なのですから。


おわりに

 ここまで、「小説を書くようになって本当によかったこと」と題して、主に3つの項目について記述してきました。
 1つ目の「書けるようになった」、2つ目の「伝えられるようになった」は、ここでは主に仕事上役立っていることとして説明はしていますが、同時にプライベートでも自分の伝えたいことを表出し、それをまとめて他者に伝えるすべにもつながっています。結果として私のなかで、他者とコミュニケーションをとることに対する苦手意識が、若干ではありますが、薄れつつあるように思います。

 3つ目の「インプットできるようになった」はとくに自分のなかで重要で、本を読むのが遅いことが長らく根強いコンプレックスとしてあった自分ですが、それでも意味はないことなんてないんだと思うと、途端に「インプット」が楽しいものになりましたし、そしてまた視野も広がったように思います。様々なことに関心が向くようになりました。政治、経済、法律、環境問題、さまざまな時事問題……憤りばかりおぼえる世の中ですが、それらを斜に構えることなく真正面から勉強して、けれどものめるこむことなくその「勉強している自分」を俯瞰した目で見てみる。一つの物事にさまざまな視点を持つことも大切なのだと、最近は思いはじめています。

 そのように、仕事にプライベートに趣味(小説)にと充実している現在、私は楽しくて仕方がありません。いや、苦しいことや辛いことは当然日々あたらしく生まれてくることではあるのですが、それにしたってやっぱり楽しい。多分今、自分の人生のピークなんだと思います。

 ただ小説を書きはじめただけでも、小説以外のことにこんなにもいい影響があって、果ては世界の見えかたがこんなにも変わったんだということを、人生のピークである今のうちに書き残しておこうと思い、今回筆を執った所存です。

 長く分かりにくい部分も多々あった文章かとは思いますが、最後まで読んでいただけて、まことにありがとうございます。今後もよろしくお願いいたします。

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