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Twitter時代に呟いた細川・松井関連のあれこれをサルベージする試み

 今回はタイトル通りですが、かつてTwitterで呟いたあれこれをnoteに移動させようと思い立ちました。場合によっては修正をしつつ、まとめていきます。
 と言うのも、今やX(旧:Twitter)と名を変えたSNS、すでに存在しないアカウントで細川や松井について長く長く呟き散らかしていた時期がありました。
 それらはトゥギャッターという外部アプリケーションに一部が残されているんですが、これらもいつ無くなるか分からない……(自分もXというSNSから退去しますし)今のうちに過去の己の発言をしっかりサルベージしておこう、という気持ちになったわけです。
 ……が、それにしても、量が多い。同じことを繰り返している。好きなものだから仕方ないとはいえ……いやはや。雑多に話が飛んでいますが、大元がX(旧:Twitter)だったということを踏まえ、ご了承ください。

これは今回新しく作った康之時代の、松井家と細川家の関係を示す略図。

松井康之  1550年生まれ
 父 正之 死没1563年(病没)
 兄 勝之 死没1565年(永禄の変による)


『細川幽斎伝』(著:平湯 晃)を読んで:

 第一回朝鮮出兵があった頃、興秋は10歳くらい。松井家の朝鮮における活躍と、康之嫡男の興之の死について……興之は15歳で元服したばかり、朝鮮での戦いが初陣となっていた。

 二条の御所が完成し、御祝いの能が興行されて、信長はこの時小鼓を打った。藤孝の息子、与一郎(熊千代)は六歳ばかりであったが「猩々」を一番舞ったという。(『老人雑話』、『大日本史料』第十編)
 熊千代(与一郎か?)は9歳にして、千句読む連歌会に参加して付句を発した。父親の薫陶の賜物か。


細川藤孝の動きについて:

 足利将軍家と縁を切ったことを背景に、細川姓を名乗るのなんとなく気詰まりで、長岡に改名したって説が好き。本当は義昭のことだって見捨てたくなかったのではないか、と思える。(生まれてこのかた骨の髄まで幕臣だったという幽斎像が好きなので)
 藤孝の人物像として、戦が好きな人じゃなかったと思う。やはり根っこは文化人であり、教養人だった。己の好奇心や知的探求心、芸術に寄せるメンタルを優先する部分はあったのではないか。
 忠興が元服して、信長公から武勇を頼りにされ始めたのが目に見えてきてからは特に、毎月の連歌会や、囲碁の名人たちの囲碁打ち見て楽しんだり……合間で行われる丹後攻めとのギャップがすごい。しかし、こういう「遊び方」が当時の(それなりに身分ある)武士たちの処世術だったのかと思えるのもまた興味深いところ。

 藤孝の手としていろんなところに赴いては武功を挙げて褒められまくってる松井康之。(藤孝は、忠興元服後やはり留守役に徹して公家衆と遊ぶか信長の相談役、というよりは中継ぎの役割だったと読める)
 康之の活躍について、信長からの書状で藤孝には「今以上に取り立ててやれ」、忠興には「家臣の能力を見極めることが大事だ」みたいなことを書き綴っているようだ。忠興の「武」の部分は下地に藤孝の血があるとは言え、やはり実戦以降のあれやこれやは信長の薫陶があったのだな〜〜って良い解釈してる。
 この本の解釈的に、光秀は吉田兼見などと示し合わせた上で本能寺の段取りを考えた説っぽい。吉田兼見めちゃめちゃ動いとる(逆になんだか引きこもってる日がある)とか、日記が妙に抜けてる〜とか指摘をしてる。ついでに言うなら幽斎が愛宕山の連歌会に来てないことにも言及してる。
 つまり著者的には「なんらかの意図があって、いつものメンツで領地から近いとこで連歌会してんのに来なかった藤孝」を指摘してる。

 大友と島津のアレコレに手を入れるための先兵として秀吉から九州行ってきてよ! てされた幽斎の九州旅記録『幽斎道之記』、めちゃくちゃ普通に九州観光してて笑ってしまった。
 船旅しつつ、関所見物、大社参詣、百韻、島周遊、参詣、豊前国門主付近周遊、参詣、博多見物、太宰府見物、姪浜、生松原見物、連歌会、香椎の浦見物、連歌会……以下略。発句所望されすぎである。

幽斎の「九州道之記」からは、秀吉の九州平定の状況は知ることはできない。

『細川幽斎伝』(著:平湯 晃)(P数不明、詳細が判明したら記載します。)

 素人が読んでも船旅して寺に泊まって連歌して参詣して歌読んで見物して歌読んで船乗って歌読んでいることしか分からないわ。
 この裏では秀吉が小倉城に入り、島津の抵抗があり、義久は龍伯と号して謹慎して、新しい所領の配分があって、朝鮮王国は来朝を求めてきてて、伴天連追放令があって、右近が追放されてんのに何一つ書いてない旅日記。小田原北条征伐の時も似たような『東国陣道記』ってのがあるみたいなんだけど、どこそこを通った、歌を詠んだ、どこに泊まった、歌を詠んだ、泊まって月を待ったけど雨で見えなかった、歌を詠んだり……。うーん優雅だ。
 病気になったから一足先に帰りますって秀吉に言って、帰るついでに足柄山行こ〜! とかしてるし(もちろん歌は詠んでるけど、病身が木曽山中を行けたのかは疑問で、もしかしたはまだ見ぬ土地を思った詠んだのかも、と)
 この本、主に幽斎周りで交流のあった人々の日記や「細川家記」を基礎としながら日付を追って幽斎の動向、考えを推論してるんだけど、田辺籠城戦……まさか…そんな前からこの男には読めていたというのか……?!という論。

 田辺籠城より前に、幽斎は智仁親王へ古今伝授を授けるために動いてたんだけど、まずそれをするに当たってわざわざ内府と豊臣方に許可を得ている。で、講義を始めて、あと一回か二回やれば終わるってところでなぜか空白期間を設けている。そうこうしてるうちに田辺籠城。智仁親王は当時の後陽成天皇の弟御にあたる。
 幽斎は「こういうことになってしまったものは仕方ない、親王への伝授はこれこれを以って完了にする」って手紙を出してて、内府、大阪、そして天皇家へ回るように手配してる。あとは幾度となく使者が来てってのは知られた通りだけど、つまり幽斎はわざと親王への伝授を止めておいての大回りの時間稼ぎをかなり早い段階から仕込んでいたのでは……という論筋。


康之の働きについて:

 忠興がいかに松井佐渡守康之を大事にして重用してたかわかる記録としては、康之が晩年病気になった際に、ほぼ毎日のレベルで手紙を書いてる(幽斎公や忠利公も書いてるけど)しかも直筆、当時としては異例ではないか。勿論伊達政宗の例などは抜かす。
 多分一番有名なのは2m30cmに渡って「ここの具合が悪いならこうしろ」とか「こういう時はこれを飲め」とか指図した手紙だと思う。筆まめ忠興がめちゃくちゃ心配してめっちゃ書いちゃった2m級の手紙、最高に信頼関係あるって感じがする。それに感動した康之は自分がもう本当にだめだなって時に、息子興長へ「殿たちから頂いた見舞いの手紙全部家宝にして」って言ってる。現存している。

 慶長五年九月、西軍に与する大友義統が豊後に進軍してきて、松井康之は中津にいる黒田如水へ援軍を要請、その到着を待って、義統が本陣を構える立石へ軍を進める。この戦いで大友軍を撃破、その際の軍功を主君である細川忠興へ注進するために作成されたのか「首注文」と言われる、敵の首をいくつ討ち取ったか記録したもの。そこには首級を上げた細川家臣の名前が列挙されており、まず「首二 松井 やり下」とあって、松井康之が自ら槍を奮って首を二つ取ってると分かる。その隣が「首一 有吉 やり下」。有吉も首を取ってる。
 貞徳もだけど、康之も殿たちからのお見舞い書状に感激して、興長に「全部取っといて家宝にして」って言うぐらいだから、細川が好きな人たちは、それだけ自身が大事にされたんだろうなあ、と第三者の側から見ても思うわけだ。ひいき目が入っていることは認める。
 これらは今日まで綺麗に残されていて、松井家代々が初代である康之公の武勇を大切に保管し、その証明としてきたのだと分かる。松井家はこういうのがたくさん残されていて、これも松井文庫に保管されている記録の一つ。関ヶ原合戦における様々な文書などもそうで、江戸の間、武家の間でずっとこうした記録が大切だったんだと分かる。


図録「もののふと茶の湯」:

 織部と康之のやり取りの書状の中で(in京都織部→in豊前康之宛て)「京都で久しぶりに会えて良かったよ! でもゆっくり話出来なくて残念だったね。あの後、忠興殿と茶の湯したけど、あなた(康之)の話ばっかしてたよ!」って書いてあって最高。


松井康之についてのまとめ:

 最初は足利義輝将軍に仕えていたが、義輝さまが弑逆されてからは義昭将軍に仕え、その後織田の協力を得た義昭将軍が上洛する時に細川藤孝の一手に加わることになった。
 初陣では首を取って信長公から褒められた。更に初陣の翌年の戦では劣勢の細川勢の先陣に立って兵たちを励まし、自ら敵将を討ち取るという大活躍をしてみせる。その後、藤孝が康之に改めて自分の軍勢として加わってほしいと願い、屋敷を与えられ、藤孝の養女と縁組することになる。
 後に藤孝が完全に義昭将軍から離れた時に、康之も義昭ではなく藤孝と正式に主従関係を結んでついていった。
 武勇高く、大体出陣した戦では首取って帰ってきてるいる。上記初陣は19歳頃のようだ。
 水軍の働きとしては信長からも大変褒められてて細川家にその書状が残っている。
意訳:「藤孝へ。康之、めっちゃすごかったから褒めといてね! 信長より」
 信長の亡き後、天下人となった秀吉からも康之は大絶賛されていて、細川の家臣であるにも関わらずめちゃくちゃ褒められる&忠興に対し「松井のこと加増してあげてよ」と命じている。なお、更には直接的なご褒美として「領地(石見半国の十二万石)をあげるから直臣になってよ大名にしてあげる!」と言われた康之であったが、これを丁重に辞退し自分は藤孝・忠興親子に恩義があり大名になるよりもその忠義を選ぶと言った。この美談がまたえらく秀吉の琴線を撫でたらしく、感激して茶道具をプレゼントされている。一説によれば秀吉はなにも本気で康之を大名にするつもりはなかったとあるようだ(細川親子は秀吉に対しよく働いたが、親子への加増は秀吉時代に一切(秀吉から)行われていないため)

 そのあと色々あって、康之は尽くしてきた幽斎・忠興親子に蟄居を命じられてしまうタイミングもある。それでも細川家を見限ることもなく、丁度蟄居中に細川家が家康とごたごたがあって「収集がつかねえ! 忠興様マジキレそう! 俺たちじゃどうしようもならないからどうにかしてくれえ!」と他の家臣たちに泣きつかれた康之はただちに家から出て、忠興の身の上を守るべく家康と交渉。なんとかその危機を乗り越えることが出来たのであった。なお、秀吉時代にも似たようなことがあって、これは有名な秀次事件の連座関係のことでごたごたがあった。康之は二度、忠興と細川家の窮地を救ったことになる。


『松井佐渡守康之松井(長岡)佐渡守興長』蓑田田鶴男 著:

 慶長十七年一月二十三日、松井康之が小倉にて死去。享年六十三歳。
 家士の中には殉死した者もいた。
 その際に忠興が康之の嫡子・興長に送った歌が「あたし世を さこそ恨め たらちおの 別れはよその 袖さへもうき」
興長の返し「おほけなき 恵みの玉の 言の葉に いとゝ袂の 露とほしゑぬ」

忠興の歌、「あさし世」か?
「あさし世を さこそ恨めたらちをの 別れハよその袖さえもうき」:『このように短い一生を本当に残念に思う お前も父との別れは身に応えるだろうな』 
興長の返歌「おほけなき 恵ミの玉のことのはに いとと袂の露そほしえぬ」:『勿体ない、憐みのある美しいお言葉で わたしの袂に落ちた露は濡れ続けています』
「玉」が「たま(康之の魂)」と忠興への言葉への賞賛を掛けてる? 有難い言葉で報われてるという意味と、褒め?
後半は「そほつ」=「濡つ」? 「露が濡れて止みません」とか言う意味か? なら意訳すると「涙で濡れ続けています」くらいだろうか?


田中理右衛門について:

 田中左角秀定:のち松井清三盛光。山城守盛重嫡子田中理右衛門は、天正十一年丹後国久美城下を訪ねた時、松井康之から召出される。
 小牧表、美濃加賀井城攻め、秀吉の九州征伐における豊前岩石城攻め、島津征伐、九州から関東に移って小田原攻め、伊豆韮山攻めなどに参加。文禄元年朝鮮へと渡海し岩山城攻め、登菜城攻め、安昌城攻め、鎮守城と軍功をあげる。
 関が原合戦では、豊後杵築で大友義統家臣、吉弘加兵衛統幸を撃退。杵築城を守る。その後、安岐城、富来城攻めに働き、忠興公に多年の武功を感賞される。康之が病に倒れると殉死を願い出る。


物集女宗入(もずめそうにゅう)殺害の件についてメモ:

 物集女氏は山城国西岡の有力土豪。
 天正三年ごろ(1575)細川藤孝が信長の入京に合わせて勝龍寺城(長岡京市)に入り、近在の地域に支配を加えることになった。物集女氏は他所から来た細川氏への従属を拒み反抗的な態度を取り続け、藤孝の西岡支配を確立する上で非常に大きな障害となっており、藤孝は物集女宗入を殺害することによってこれを取り除いた。
 その際、藤孝は信長と書状のやり取りをしており、内容を超意訳すると藤孝「曲者だったんで殺しちゃいました」→信長「長年邪魔くさかったし殺せてよかったな!」曲者=したたかな者、面倒な者 くらいの意味か?
 藤孝は事後報告しており、信長はこれを追認しているとされる。また、この殺害の実行犯が松井康之であると伝えられており、『松井家先祖由来附』によれば、藤孝の命を受けた康幸は自分の屋敷に宗入を呼び出し、刀で斬り付け絶命させたという。
 西岡は京都の西に流れる桂川の西岸部に位置する。現在の京都府京都市西京区〜向日市、そして長岡京市にまたがる地域。 藤孝の勝竜寺城本丸に隣接する区画には米田求政の屋敷と並んで、松井家の屋敷がある。
 天正以前の永禄十二年頃、康之は藤孝の誘いで嫁を世話してもらい、また勝竜寺城下に五十町の領地お屋敷を与えられて、客分のような立場にあったようだ。藤孝は若いにも関わらず良い働きのする康之を手放したくなかったみたいだ。その後、藤孝が将軍義昭から離れると同時に、正式に藤孝の家臣として仕えるようになったらしい。


松井康之と久美浜メモ:

 久美浜町(京丹後市)→平安時代後期、久美浜港周辺は「久美の庄」と呼ばれる荘園で古くから多くの人々が住んでいた。
 中世に入ると、丹後守護職一色氏の家臣松倉氏が支配し、天正六年(1578)の織田信長による丹後侵攻後は従軍した細川幽斎が支配、久美浜は家臣である松井康之が一万三千石の知行を与えられ、松倉城の城主となり城下町を整備し、現在の町並みの祖を築く。滅ぼされた一色氏の家臣には小西家のように土着し、豪商としてその後も大きな影響力を持つようになる者もいた。久美浜城こと松倉城は久美浜小学校の西にある標高59mの城山に築かれており、現在は城山公園として整備されているらしい。実際に行ってないものだから、これはネットの情報以上が分からない。
 城山稲荷神社とも出ていたのでお社があるのか?
 標高57mの山城で、海が近いことから比高は55mくらいらしい。海が目の前に位置していて、この城から見る久美浜の海を想像すると熱い。
 スタートがどこかわからないが、元々の城主は一色満信の家臣・松倉周防守で、天正十年(1582年)細川氏の部将松井佐渡守康之との戦いで討死。焼き払ったのは周囲に余分な城があるとそこに敵兵が入って拠点とされる恐れがあるからだったような。以後整備されることはなく(康之は主人である細川氏に従い九州の地へ転封となっている。)
 江戸時代の中頃(1735年)には天領となったようで、久美浜代官所が現在の久美浜小学校の地に置かれた。慶長五年(1600年)関ヶ原合戦では細川氏の主力は細川忠興に従って会津征伐に向かっていたが、松井康之は飛領地であった豊後国杵築城代として豊後に居た。石田三成が挙兵し丹後へ侵攻すると、留守を守っていた細川幽斎は留守居の諸将を田辺城に掻き集めて籠城。このとき久美浜城も焼き払われた。
 補足。関ヶ原合戦後に細川忠興は豊前国中津へ加増転封となり、松井康之は最終的に豊後国杵築二万六千石が与えられて移り、細川氏が肥後国熊本へ移った後は康之の子興長が肥後国八代城三万石を領した。

松井康之と久美浜メモ2:

 宗雲寺庭園、正式には「常喜山宗雲寺」のほうか。久美浜町に境内を構えている臨済宗南禅寺派の寺院で、京都・近衛家の庇護もあり室町時代中頃の一説に寄れば1432年に創建。山号の由来でもある「常喜庵」という小庵で久美浜町多茂ノ木にあったと伝えられている。
 天正十五年(1587)、久美浜・松倉城主となった松井康之が、父親である正之の菩提を弔う為、玄圃霊三和尚(南禅寺住職で、康之の叔父)を招き中興開山をする。以来、松井家の菩提寺となり、臨済宗南禅寺派として今日に至る。庭園の他にも絹本著色松井康之像や玄圃禅師関係資料が京都府指定文化財となっている。このあたりは京丹後市のホムペなどから一部拝借の説明です。
 京都府指定名勝の庭園は本堂・方丈・庫裏が再建された1801年に併せて作庭されたという説と、寺史によると中興開基の松井康之公による作庭(=室町時代後期)という説があるらしい。長禄二年(1458)の銘の残る宝篋印塔や松井康之の父・正之、母・法壽をまつる肥後の墓などの文化財が伝えられているそうな。
 久美浜町湊宮(宝泉寺)に、松井与八郎の墓がある。松井康之の嫡男、与八郎興之は文禄の役に出陣、文禄元年九月疵を蒙り、肥前名護屋に帰還したが、二年八月十五日同地で18歳の若さで死去。どっかで15歳とか見たような気もするけど、ちょっと思い出せないからメモ程度で。
 「海の見える場所に」との遺言を残し、若い嫡男はこの世を去った。父親である康之の心のうちはどれほどつらかっただろう。遺言の通りに、己が納めた久美浜の地へ嫡男の墓を置いたようだが、杵築へ行ってからは康之本人が高齢だったことと細川家のゴタゴタで移設できなかったのかな。

手作り略図

松井康之正室・自得院メモ:

 生1560~没1641。若狭熊川城主、沼田光長の娘で沼田麝香(細川藤孝室)の姪にあたる。永禄十二年(1569)、藤孝の養女となり、康之と縁組をする。『松井家先祖由来附』によれば、藤孝は康之を手許に留め置くためにこの縁組を整えたとされる。
 名前については「沼田光長の娘」という表現が一般的で、藤孝の養女となった後に康之に嫁した。康之ニ十歳の頃。妻は十歳年下。藤孝と康之は岳父と婿の関係。島田美術館で購入した内膳家の資料集によると康之妻は「かや」と記載。(※個人的には、この名前を採用して略図を作った。)
 康之と自得院の結婚生活は四十三年に及び、興之/興長/いと/たけ の二男二女をもうける。康之没後に証人(人質)として江戸へ行き、死去するまで江戸で暮らした。
 康之の長男、与八郎興之は生1576~没1593。康之二十六歳、自得院十六歳くらいの時の長男か。勝龍寺城に居た頃に生まれている。

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