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「いいひと戦略」もっと上手く使いたかったな

岡田斗司夫さんの「いいひと戦略」という動画を見た。

これから先というか、もうそこまで来ている社会の潮流に対して上手く立ち回る話が聞けた。

簡単に言うと「争いに巻き込まれるな」である。

頭は悪いけど「いいひと」だと思われよう。

その方が得だから。


日常を過ごしていると、必ずどこかで争いが生じている。

それは戦争の話もそうだけど、SNS上での言い合いなんかもしょっちゅうある。

明らかに一方が不誠実だというのもあれば、どっちもどっちみたいな正義と正義の戦いが起こっている場面もある。

こういう時に「関わらない」。

もっと言うなら「味方に引き入れてもこいつ頭悪いから戦力にならない」と思われること。

「でもいいやつなんだよな」と思われること。

”戦略”とはよく言ったものである。

”本物”ではないのだ。

「ここはスルーした方がいい」という判断をしての作戦。


かるーく説明したので「おもしろそう」と思った方は元ネタの動画を見て欲しい。

で、これを見た時「黒田官兵衛は”いいひと戦略”やってないな」ということを思った。

黒田官兵衛を簡単に説明すると、戦国時代に豊臣秀吉の天下取りを支えた軍師である。

そして何を隠そう、この黒田官兵衛から僕の「くろだ」という名乗りは始まったのである。

かっこいいのよね。

天下人になった主君・秀吉に対しても、臆することなく悪いことは悪いと言う姿勢。

そして頭がいい。

生涯の戦で負けたことがないと言われている。

そのくらい軍略面で豊臣政権を支えてきた人。

まぁその才能がゆえに、秀吉から恐れられて九州に移動させられたという話もあるが、それはそれでかっこいいのである。


話を「いいひと戦略」に戻そう。

黒田官兵衛、ものすごい功績を挙げて歴史に名前を残した人ではあるんだけど、「いいひとであったか?」に関しては首を縦に振れない。

なぜなら「いいひと」になるには「イヤなひと」であることをしないことが必要だから。

「何かを得るには何かを捨てよ」という言葉があるように、「いいひと」になるには「イヤなひと」であることをやめなければならない。

で、その「イヤなひと」になる行動が、

  1. 欠点を探して指摘する

  2. 改善点を提案する

  3. 陰で言う

  4. 悪口や批判で盛り上がる

  5. 悲観的、否定的な態度を隠さない(表してしまう)

  6. おもしろい人、頭のいい人、気が合う人だけで集まる

の六つである。

詳しい内容は元ネタの動画を見て欲しい。

この中で黒田官兵衛は1と2を確実にやっている。

秀吉の側室・茶々が第一子を身ごもった時、お城の塀に「ほんとに猿の子か?」的な冷やかしの落書きをされる事件があったという。

秀吉は怒り、犯人を捜させるが見つからない。

気が収まらない秀吉は当時見回りしていた門番を処刑する。

まぁ門番がしっかりしていればという話ではあるが、処刑はさすがに罰が重すぎる。

ということで官兵衛が説得に入る。

「落書きに書かれたことで怒っていると『図星だから怒ってる』と思われるぞ」

これは完全に”イヤなひと”戦略の第1条「欠点を探して指摘する」だよね。

これは一例である。

秀吉の朝鮮出兵に反対するってのは2条の「改善の提案」。

とにかく秀吉に対して官兵衛は”イヤなひと”戦略を執っていた。

だから播磨(現在の兵庫県辺り)を領土として持っていたけど、だんだん大阪から離されて、最終的に豊前(現在の福岡県辺り)に飛ばされている。

これが官兵衛自身気にしていたのかどうかはわからないが、徳川家康が江戸への国替えを命じられた時の悔しそうな感じを見ると、官兵衛も生まれ故郷から切り離されることはいいことではないと思う。

それなのになぜ官兵衛は”イヤなひと”戦略を執っていたのか。

官兵衛は頭のいい人だから「嫌われるな」とわかっていたはずである。

わかっていても嫌われに行ったのは、豊臣政権下で天下を治めたかったから

そのためになら嫌われたっていい。

僕はそう解釈している。


長くなった。

まとめに入ろう。

これを言ったからって「”いいひと”戦略をしなくていい!」ってことではない。

世渡りというか処世術として、人と争わずに”いいひと”と思われる方法は持っておいた方がいい。

だけど自分の理想を達成するためなら、”イヤなひと”であってもいいじゃないか。

要は使い分けが大事ということである。

基本的には”いいひと”であり、我を通す時は”イヤなひと”になる。

進んで嫌われることはないけど、結果嫌われても仕方が無い。

ただ、普段から敵を作るのは辛いよ。

だから上手く立ち回って生きていこう。

これが言いたかった。


官兵衛は息子の黒田長政に対して「お前はダメな奴だ」と釘を刺していたらしい。

それは突出したものを見せると主君から目を付けられ、お家や長政自身の存亡に関わるから。

この逸話を聞くと、やはり官兵衛は”いいひと”戦略を知っていたと思う。

しかし秀吉に対しては使えなかった。

それが今日の歴史を作ったのだけど、「もっと上手くできたのかな」って想いもあったんだろうね。

大丈夫。

僕が代わりにやっとくよ。

なにせあなたに憧れてこの名を名乗っている僕なのだから。


よく考えたらそれじゃあダメじゃん。



【注意というか言い訳というか】

このnoteで書いた歴史上の話は「一説」としてのお話。

なんなら大河ドラマ『軍師官兵衛』の影響をもろに受けた歴史観なので、間違ってるところも多いと思う。

なので「それ間違ってるよ」というご指摘は”優しく”お願いします。

僕自身「これが絶対正解!」とは思ってないので、学ばせてください。

よろしく。

最後まで読んでくれてありがとう。


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