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【ピリカ文庫】「ふわり夕闇」

アスファルトは火傷しそうだ。
靴を履く人間ならまだしも、素足で過ごす犬ならなおさら。
コテツを気遣って、夏の散歩は夕方にしている。


いつもの道。ここから緩く坂道になる。
荒く息を吐きながら前進するコテツを追いかけるようにして、私は小走りになった。
目の前で巻尾が揺れる。


坂の上にはちょっとした公園がある。
高い木がそびえ、草木が生い茂っているので見た目にも涼しい。高台なので時折涼しい風が吹く。
奥まった場所に東屋があった。
コテツを休憩させる名目で私も腰を下ろす。そのとき。


「あの、すみません」

か細い声が後ろから聞こえた。
振り向くと女性が立っている。声同様、線の細い姿だった。赤い服を着ている。よく似合っていた。

伏せていたコテツが唸りだす。リードを短く持ち、とびかからないようにいさめた。

「まゆみさんですね」

女性は言った。何故か私の名前を知っている。

「私は助けてもらった金魚です」



「あの時はありがとうございました」

女性はその場で膝をつき、頭を垂れた。三つ指までついている。

「あのちょっと!そこまでしなくても」

慌てて止めた。

「ずっとお礼が言いたかったのですが、時間がかかってしまいまして」

女性は膝をはたきながら立ち上がり、にっこり笑った。

「まゆみさんと出会ったのは今から17年前の夏の夜です。神社の縁日で」

ぼんやりと記憶がよみがえる。

夏休みに遊びに行った祖父の家。近くにあった神社。そこで行われる縁日が毎年楽しみだった。
17年前というと私は7歳だ。

「神社の奥の方にあった、金魚すくいの屋台をおぼえていますか」

女性が話すと涼しい風が吹く。長い髪がふわりと揺れた。


コテツはいつの間にか落ち着いて私の足下に伏せている。女性は私の隣に腰かけた。

「はっきり覚えてないです」

綿あめ、お面、ヨーヨー釣り。金魚すくいの他にも誘惑はたくさんあった。

「そうですよね。仕方ありません」

寂しそうにつぶやく女性が気の毒になって思わず謝罪の言葉が出た。

「ごめんなさい」

女性がくるりと私を見た。

「でもまゆみさんに助けてもらったのは本当です」

真剣な目で私を見つめている。

「病を持った金魚が同じ水槽にいたのです。あのままだったら私も病を得るところでした」

狭いビニールプールの中、せめぎ合うように泳いでいた色とりどりの金魚たち。

あの中で女性は泳いでいたという。

「まゆみさんに掬われたとき、ほっとしました」

金魚すくいに成功した夜があったのは覚えている。

いつもはすぐに破れてしまうのに。

それが目の前の女性ということなのか。

「すぐに死んでしまいましたけど」

屋台のおじさんが小さな透明の袋に金魚を入れてくれ、それを祖父の家までぶら下げて帰った。

金魚鉢も水槽もなかったから、庭先の大きなバケツに入れた気がする。

数日間は姿を確認したけれど、ある朝いなくなってしまった。

猫に襲われたのか、バケツを飛び出してしまったのか、わからない。

「ちゃんとお世話しなくてごめんなさい」

女性がかぶりをふる。

「いいえ、いいんです。まゆみさんは毎日声をかけてくれて私は幸せでした」



朝起きて縁側から庭に降りる。

祖父のサンダルをかぽかぽ鳴らしながらバケツに近づくと、赤い金魚が見えた。

泳いでいる。ちゃんと元気だ。

祖父のくれた金魚用のエサを与えながら私は「おはよう」と声をかける。

口をぱくぱくさせながら近寄ってくる金魚がかわいくて夢中になった。


「その気持ちを伝えたくて、今日は来たんです」

女性はすっと立ち上がった。

「だから今度は私がまゆみさんに何かしたくて。何か願い事はありませんか?」

涼しい風が吹く。赤い服の裾がふわりと揺れた。

女性の声の方向に鼻先を動かしているコテツの背を撫でた。

ほのかに暖かい。

「願い事…」

まるで日本昔話だ。金魚の恩返し。
大なり小なり思いつくけど、ここで金魚に叶えてほしい願い事なんてあるだろうか。

「まゆみさんの願い事を叶えます」

細くてかすかだけれど、その声は私の耳に
はっきり聞こえた。


「元気に暮らせて、会いたい人と会えたらそれでいいと思う」

コテツが鼻を鳴らしている。

「承りました」

ざっと風が吹いて、赤い金魚はいなくなった。



私も立ち上がってコテツのリードを持ち直す。

待ってましたとばかりにコテツが走り出した。腕を引っ張られる。

「ちょっとコテツ!」

慌てて追いかける。

いつの間にか辺りは暗くなっていた。

香る夏草の道を歩みながら、金魚と過ごした夏の日を思う。

ささいなことが幸せだったんだな。

17年もかけてお礼を言いに来てくれるなんて。

思わず笑みがこぼれる。そのとき。

背後で音が鳴った。


夜空に花が咲く。

「花火?」

突然の轟音にコテツが吠えまくる。

花火大会なんて知らなかった。いや、サプライズ花火かもしれない。

パッと咲いた花が、枝垂れるように夜空を流れ落ちる。

それを見て思い出した。


「はなび」

私は金魚をそう呼んでいた。はなびちゃん。

赤い尾ひれが花火みたいにきれいだったから。

「はなび」

今度は声に出して呼んでみる。さっき思い出せたら良かったのに。

あれほど吠えたてていたコテツが神妙な顔で夜空を見上げている。

心地よい風が吹いた。
           (完)









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