【手のひらの話】「雨はまだ」
ここを歩くのは久しぶりだ。
いつもはオレンジ色の自転車で走り抜けている。入り口には公園名を示す石碑があった。なかなか立派なものだ。今更だが初めて見た気がする。
雨の木曜日。
ちょっとの雨なら自転車通勤しようと思っていたが、天気予報は無情にも今後の強い雨を予報していた。仕方がないので歩いて行くことにする。早めに家を出なければならない。サクサクとコーンフレークの朝食を済ませ、いつもより20分早く出発した。
職場は駅の向こう側にある。公園を抜けるのが近道だった。
水溜りをよけながら歩く。
植えられた木にはプレートが掛かっており名称と簡単な説明が記されていた。この木はこんな名前だったのか。花壇の花々も美しかった。雨粒がきらきらと光っている。手入れをしている人がちゃんといるんだろう。
毎日通っていても知らないことばかりだ。目の高さが違うと世界が変わる。
雨の匂いの中、歩みを進めていた時だった。
目の前に男性が飛び出してきた。
「わぁすみません!」
スーツのサラリーマン風。
「驚かせてすみませんが…駅はどちらですか?」
焦っている。不審者かと身構えたが違うようだ。
「最近引っ越して来て今日が出勤初日なんですけど土地勘がなくて…」
公園の入り口は何箇所かある。彼がどこから入ったのかは不明だが、迷うのも頷けた。「こちらです。私も駅に向かうので良かったらご一緒に…時間大丈夫ですか?急ぎます?」
額に汗が浮いている。出勤初日に遅刻はまずいだろう。
「何分くらいかかりますかね」
「余裕持つと10分ほどかと」
「なら大丈夫です!」
タオルハンカチでこめかみを拭っている。張り切ってる印象。新入社員というわけではなさそうだ。
語尾に独特のイントネーションがあった。遠くから引っ越して来たのかな。
霧雨がまとわりつくように降っている。木々が茂る小道を抜け、やがて公園の出口が見えてきた。
「いつもここを通ってらっしゃるんですか?」
不意に聞かれた。砂利道がコンクリート舗装に変わる。
「いつもは自転車なんですけど、今日は雨だから歩きで」
「ああ。自転車だったら早くて便利ですねぇ」
自転車か。独り言のように再度呟いている。
駅は左。
私は右に曲がり地下通路を通って反対側に向かうルートだ。
「電車ですか?」
私が尋ねるとタオルハンカチをポケットにしまいながら彼は答えた。
「電車に乗ります。本当に助かりました。どうもありがとうございます!」
半身を折り曲げてそう言った。道案内くらいで…こちらが恐縮してしまうレベルだ。
それから体を元に戻すと、反対側へ歩き出す私に「行ってらっしゃい!」笑顔で手を振ってくれた。
変なひと。爽やか青年か。周りの目が気になったので軽く会釈して私は歩き出した。
梅雨が明けたらしい。
傘の出番が減り、オレンジ色の自転車はフル稼働だ。
公園を抜けるコースは変わらないが、少しのんびりコーヒーを飲める。雨の恵みで緑が育ち、青空に眩しい。
前カゴにA4が入る肩がけトートバッグを縦に突っ込み、ペダルに足を乗せた。漕ぎ出す。前方に犬。この時間帯は多い。暑くなる前に散歩に出ている。たまに飛び出してくる犬もいるから要注意だ。
犬をチラ見しながら視線を前に戻すと自転車が走っていた。白いフレーム。何だか書いてある。ダイチャリ?何だっけ。
ぎこちない走りなので追い越すことにした。乗っているのは男性だが自転車に慣れていない感じ。ゆらゆらしている。
「あっ!」
後ろで声がした。
「え?」
思わずブレーキをかけて振り向く。
ダイチャリの主はいつかの彼だった。
「その節はお世話になりました」
深々と頭を下げてくる。つられてこちらも。自転車に跨がったままの2人だった。
「自転車通勤にしたんですか?」
ダイチャリを指差す。
「まずはお試しでレンタルを。便利ですよ。コンビニで借りて駅前で返せる」
そういうシステムなのか。
「道は覚えました?」
道筋よりも自転車の運転に不安がありそうだが聞いておく。
「なんとかね。こっち長くなりそうだから休みの日に探検してます」
2人の横を犬が通り過ぎた。
「あ、すみませんお急ぎなのに声かけちゃって」
「いえ別に自転車なら早いですから」
そう言いながらハンドルを構えてペダルに体重をかける。
「じゃあお先にどうぞ!行ってらっしゃい!」
背後から声がした。どれだけ爽やかなのよ。変なひと。
危ないから振り向かなかったけど後ろ手を振ることにした。
ひらひらと。
雨はまた。
会えるかもしれない。
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