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思考の再構築①

こんばんは。海月です。

書いているのがたいてい夜なのでこんばんはとしておきます。

普段はXでデュエプレに関する情報発信を主に行っています。

活動の一環として質問箱をやっていて、開始から3年を迎えました。

回答数も2000に届きそうなところで、これまでの質問についての振り返りを行おっていこうと思った次第です。


質問箱とこの記事群について

質問箱を始めたのは、2021年の4月に入った頃でした。

発信活動を始めたのが2021/1/1で、この頃は毎月1つずつ新しい取り組みを追加していたんです。

2021年の5月半ば頃にフォロワーが1000人に到達したので、この頃はたぶん700人か800人くらいだったでしょうか。

活動開始当初の私のTwitter利用方針として、「自我をあまり出さず、あくまで情報発信のアカウントとして振舞う」ということがありました(途中からこの方針は転換を迫られます)。

そのため、フォロワーの方々との交流や、自己を前面に出す場として用意したのが質問箱でした。

後に「自分の知識や能力のある分野でフォロワーに還元する」「目立つ立場にいる者として、見ている人が抱く直接伝えづらい疑問や不満の解消場にしてもらう」といった目的が追加されていきますが、経緯としてはこのようなところです。


私は10年以上前、20歳の頃の受験勉強(二浪しています)で、センター試験の現代文の問題から強く印象に残る文章に出会ったことがあります。

それは2001年の本試の、富永茂樹という方の書いた『都市の憂鬱』というもので、以下のような記述でした。

ある種の人びとにとって、日記はただ毎日つけるだけでは十分ではない。
それを繰り返し読み、かつ意見を追加しゆかなければいけないのだ。
再読と記述の追加とは、日記を書くという行為の何か本質的な部分につながっている。

富永茂樹『都市の憂鬱』

著作名から推測できますが、この記述は本旨への導入、前振りに過ぎません。

ですが、中学1年から当時で7年ブログを続けていた(31歳になる現在も続いています)私にとって、この主張、引用されたチェーザレ・パウェーゼというイタリア人作家の行動は鮮烈に届くものでした。

それ以来、文章を書くことを続けながらも、折を見てはその成果物を振り返るということを習慣化しています。

noteに綴って来た数多の記事もそうで、暇があれば自分の文章を読み返し、時にはもう誰が見るわけでもない遺物のような文章に「記述の追加」を行ったりしてきました。

ただ、この質問箱に関しては3年以上の蓄積があるにも関わらず、一期一会の使い方しかしてきていません。

そのことをもったいなく、申し訳なく感じる思いがずっとあり、3年を節目としてようやく再読を試みて行こうと思った次第です。

やっていくことはシンプルで、

・質問箱の回答を古い順にさかのぼり
・目に留まった質問を取り上げ
・当時の回答を振り返りながら
・今思うことを書く

というだけです。

ちょっと寄り道するようなことや、深い部分に触れることもあるでしょうが、私としては自分の再読・再考が主目的なので、公開するのはついでのような気持ちです。

ある日ぱったりやめることもあるかもしれませんが、できるところまで続けていきますので、気の向いた際に読んでいただければと思います。

それでは以下、本題です。


頭の良さについて

褒めて下さってるってことでいいんですよね?ありがとうございますYO。

でも、この質問見て一晩考えましたけど、誰も浮かびませんでした。
フォロワーさんをそういう視点で見てなかったみたいです。 答えになっていなくてごめんなさい。

2021/4/18回答

回答は「誰も浮かびませんでした」としていますが、これはおそらく嘘で、誤魔化したのだと思います。

今も共通して、必要以上に個人名は出さないということを心がけているので、この時も回答を逃げたんでしょうね。

実際は「この人頭いいなー」とかは今も昔もよく考えています。

他者を評価する趣味があるというわけではないですが、コミュニケーションを取る上で相手の頭脳レベルを測るのはすごく大事なことだと思っているからです。

逆もまた然りで、「この人は理解力に難があるな」とか、「思考の方法を知らないな」とかもよく感じます。

これは決してその人を小馬鹿にしたり見下したりするのではなく、そうした人たちが確かにいるという事実に向き合うことだと考えています。

優れた人がいることを認めれば、対照的に劣る人がいることもまた、認めなければならないのです。

昨年から転職した新しい仕事では、社会的立場の低い人と接する機会がそれなりにあります。

そうした人たちを見ていると、如何にこの世には生来的な生きづらさを抱えた人がいるかということを、強く実感します。

この人たちのために福祉があるのだな、と。

弱者であろうと、他人に自分の稼ぎ・税金が費やされることを嫌う人もたくさんいるでしょう。

私もそうした性質が自分の内にあることは否定できませんし、今よりも若い頃はその方が勝っていることもありました。

ですが、実際に生きづらさを抱える人、それを自覚しながらも生きていかなければならない人を見る時、人間の本能に近い、種として寄り添う使命感に近い気持ちが湧いてくるのです。


自身のことについては、頭は良い方だと思います。

自分が頭が良いと思う最大の理由に、何にでも興味を持つ性質があるから、ということがあります。

興味を持ったことを忘れづらいのは人間全般に当てはまることだと思いますが、私はその幅が人よりも広いのが間違いないことを、数十年生きて確信しました。

必然覚えている知識が人並み以上に多く、それを活用した生き方をできていると感じます。

ですが、どう頑張っても一番上のステージには上がることのできない中途半端さも自覚しています。

本当に頭の良い人には勝てないですし、漫画の頭脳戦では一杯食わされてしまう負け人生側の人間です。

また、頭を使う人間性も足りていないと自覚しています。

詳しくは書きませんが、もっと自分に知識と感情を切り分けることができればと思います。

そういった意味では、頭の良さは感情と密接に結びついているのではないか、というのが私の考えです。

どこが終着点かも見えないですが、賢くなりたいです。


記事を書くコツについて

・何が面白いかを知っていること
・それを表現するために手を抜いたり適当な書き方をしないこと
だと思います。
要は客観性を持ちつつ妥協しないことで、インプットとアウトプットの積み重ねです。
具体的な書き方について言うと、一つの見出し内で同じ表現を二度使わないようにすると、生きた文章が作りやすいですよ。
あとは絶対に自分が読んで面白いもののみを発表することです。
私は自分の記事を面白いと思っていますし、暇さえあれば読み返しています。

2021/4/22回答

この回答は3年経った今でも概ね納得するものです。

「暇さえあれば読み返している」ってのはこの時も書いていましたね。

ただ、これは幾分ストイックすぎて、気が向いたから記事を書こうというくらいの人たちにとっては少し的外れかなとも思います。

観念的な回答をした上で、その後に具体的なアドバイスをしているのは、そうした思いがあったからかもしれません。


「何が面白いかを知っていること」をインプットとイコールにしていますが、生来的に面白いものを生み出せる人はほとんどいないと考えています。

模倣やオマージュから始まり、それに慣れてほんの少しのオリジナリティが加えられたところに、ようやく創作が成り立つと思うのです。

言い方を変えれば、インプットのない創作は創作未満だとも考えます。(ストイックすぎる)

もっとも、このインプットに偏重していくのは、創作に対する恐怖感からの逃走の側面もあります。

ものを知っていくほどに創作の難しさを知り、目を背けたくてまたインプットに没頭してしまうのです。

創作歴が長くなるにつれてペンが重くなるのは、こうしたことがあります。


「手を抜いたり適当な書き方をしないこと」は、「その時書けるベストを尽くす」と言い換えられるでしょうか。

どんな記事であっても、そこにどれだけ情熱が注がれたかというのは結構透けます。

面白さが決まるとは言わないですが、文章の勢いや力強さには影響してくるもので、読み手の潜在的意識に作用してくるものだと思います。

自分の書いたものでも、他人が書いたものでもです。


具体的な書き方として挙げた、「同じ表現を二度使わない」と「自分が読んで面白いもの」は、今も実践していることですね。

前者は日頃の質問箱の回答やこの記事一つとっても、一連の中で同じ表現が反復するところはほぼないはずだと思います。

後者はここまで書いてきたことの節々と符合しますかね。

改めてストイックが過ぎるし、だいぶ精神論だなあと少し自分で呆れてしまいます。

そうした意識で私がものを書くことと向き合っていることが伝われば幸いです。

とはいっても、自分はともかくとして、他の人にはどんどん記事を書いてもらいたいと思っています。

とにかく書き上げることで上達していく人もいるでしょうし、何より見る側としては数があるに越したことはないからです。

デュエプレの記事文化はもうかなり定着してきましたが、これからも絶え間なく続いてくれるといいですね。

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