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ポルトガルの北部から南部へ【元外交官のグローバルキャリア】

ポルトガルにワインを飲み、世界遺産を拝み、ファドを聴きに行った。
ポルトガルはミーニョ地方からコインブラ、ポルト、リスボン、シントラ、と南下した。

ヴィーノベルデという微発砲のポルトガルワインやポルトを飲んで、タイルを眺める旅だ。

北部の宿テラロッサにて

「北部と南部では気質も食べ物もワインも違う」と北部ポンテデリマのワイン畑地主のブティックホテルのオーナーが言う。インテリアデザイナーの娘が客室を設え、父娘で優雅に共同経営をしている。緑に囲まれた清々しい場所だった。

滞在中にファドを聞いてみたい、と言うとオーナーは自分はあまりファドは聞かない、唯一聞くのはアマリア・ロドリゲスだ、とスマホで聞かせてくれた。日本人が憧れるファドは、アウトサイダー音楽を発祥としている空気を感じ取る。社会的階層によって聴く音楽が違う。日本はそう言う意味では、聴く音楽でさえ比較的フラットな社会ではないかと思う。

ポンテデリマ

地元のポルトガル人とややまともな会話をしたのは、振り返るとこの程度だ。後は世界遺産を巡り、美味しいとされるレストランで名物料理を食べる、その繰り返しだった。インバウンドの観光客が地元の人に配慮しない、オーバーツーリズムの目線こそがこれだ。

シントラのPiriquitaのお菓子

拙い世界史の知識を繋ぎ合わせて、建造物やその説明からポルトガルの栄枯を読み取ろうとする。中世から欧州とは何と異教徒間と王朝間で闘い、奪い、奪われの歴史を繰り返した事だろう。聖地エルサレムを巡ってテンプル騎士団がムーア人と戦い、回教建築はキリスト教様式に変えられた。
教会をモスクに変えたアヤ・ソフィアはビザンチンからイスタンブールとなった時だ。その逆の事がシントラで起こっている。

シントラの王宮

そもそもムーア人とは何を指すのだろう?元々は北アフリカのマグレブ地方のベルベル人を指し8世紀初頭からはマグレブ、イベリア半島、シチリア、マルタに住むイスラム教徒のことだそうだ。リスボンの大聖堂の一つには、回教徒の蛮行の像が彫られているところもあった。王宮にはムーア人との戦いを表す絵画も飾ってあった。

ムーア人の城跡

統治と宗教は切って切れない縁にある。一時間近く並んでジェロニモ修道院に入館し、そのサイズ感に圧倒され、細やかな装飾に魅了される。そこにヴァスコ・ダ・ガマ墓もある。

ジェロニモ修道院

バスコ・ダ・ガマのインド航路の開拓という偉業は、キャンセルカルチャー的には、布教、侵略、搾取に人身売買の植民地主義の始まりに該当するだろう。日本は統治機能や主権が確立されていたから植民地化せずに済んだのか。歴史的建造物にどれだけの数の奴隷が作業にあたったことか。その異教徒の奴隷達はどこから連れて来られたのか。

ポルトのドウロ川の夕陽

順番が前後するが、ポルトで無事にファドも聞き、当初の目的は達成した。サウダージの哀愁込めた生の歌声はやはり耳に心に響く。

ポルトガルで地政学的な物思いに耽るとは思わなかった。時を同じくしてイランがイスラエルへドローン攻撃を仕掛けた。恐れられたほどの展開には至らなかったが、未だ1967年の6日間戦争の名残であるガザでのイスラエルとハマスの対立には終わりが見えない。
タイルに囲まれワインを飲みながら、イベリア半島での宗教抗争の歴史と今とを対比させていた。

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最後までお付き合いいただきありがとうございました。お口直しに幸せを呼ぶお守りのガロを披露いたしますのでスキしてくださいませ。

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