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ジンジャーハイボールと彼 第八話


 今朝は夏が近いことを感じさせる気持ちの良い青空だった。気づくと、季節は六月になっていた。今年の春は、桜を見に行く機会も作られずに終わってしまった。

「皆さんおはようございます。とうとう六月です、忙しさで心がなくなってしまうこともあるかも知れません。上手く発散し、楽しんで仕事に挑めるようにお互いに励ましあって、体調にだけは気を付けていきましょう」

 上司の長谷川千夏さんが背筋をピンっと伸ばして皆を見渡しながらそう言った。
 眠そうな感じ、嫌な表情をしているメンバーはいない様子だった。
 このときの皆の雰囲気をなんとなく把握し、仕事がうまく進んでいるか否かは後から確認するようにしている、ということを長谷川さんが以前言っていたことを思い出す。

 今は全体的に順調のようだと感じたのか、長谷川さんは少し安堵の表情をしていた。

「では、本日もよろしくお願い致します」
「お願いいたします」

 トップで仕事をするのは大変だろうな、やりがいもあると思うけど。
 長谷川さんが、そこまで私に筒抜けに話すのは何か意図があってだと感じた。様々な仕事を任せてもらえるのも、長谷川さんからの期待が伝わってくる。

 私は、少し静かな別室へノートパソコンを持って移動した。他のエリアで勤務する若手メンバーとは、朝一にオンライン打ちあわせからスタートしていた。

 これまでの動きやこれからの動きをチェックしながら、仕事と関係ない話をしたりもする。
 昨日繋がったメンバーは男性が多かったが、今回は女性メンバーがほとんどだった。
 あえて話を脱線させ、息抜きや現在の仕事への意欲を知る手立てにしていた。これも、長谷川さんからの受け売りだった。

「木原さん、オンライン中にすいません」
後輩の佐々木泉がいつの間にか会議ルームにきて、申し訳なさそうに後ろから声をかけてきた。

「そろそろブライダルフェアの打合せをお願いします。あと、フェアの準備段階の様子をインスタグラムに載せるので、写真もお忘れのないようにと長谷川さんから伝言でした」
「おお、そうだった。今行きます。ありがとう」
「雑談が多くなってすいません!そろそろフェアの準備に行きます」

 オンラインメンバーとの打ち合わせも終盤に差し掛かっていたので丁度良いタイミングだった。
 フェア準備では、インテリアとなるキャンドルやお花に間違いはないか、設置場所などプランナー同士で確認を進める。
 今週末、自分が担当する結婚式は入っていないためお休みとなっていたこともあり、打合せが中心となっていた。

 実は今から楽しみでしょうがない事が。なんと、前回に続いて来月も大好きな韓国ドラマの主人公が来日イベントがあるのだ。
 もちろん入場券はゲットしている。
 平静を装っていたが、興奮が抑えられなかった。
「木原さん、すごく楽しそうな顔をされてますね。フェアの準備が好きなんですね」
 後輩の佐々木が可愛い表情で言う。
「そうかな。そんな、気のせいだよ」と言いつつ、顔がにやけてしまう。

 作業に熱中していると、長谷川さんから声がかかった。
「木原さん。もうそこは良いよ。このあと、私の仕事に付いてもらえるかな?パティシエとウェディングケーキの相談なの」
「あ、はいわかりました。フェアのインスタ画像がまだ選べなくて。ごめん、佐々木さん選んどいてもらえる?ちょっと行ってくる。」
 画像保存したタブレットを後輩へ渡し、その場を後にした。
 
 

 
 汗が溢れて、息が上がる。いつもよりボールの蹴り方に切れはなかったが、気持ちいい疲れ具合だった。
 理科教育研究会での研究発表も先日に終わり、かなり疲れがたまっていた。体の疲れというよりはプレッシャーからくる心労という方が大きかった。
 その開放感からか、久々の大学仲間とのフットサルはすべてを浄化するような心地だった。

「日下部先輩、めちゃくちゃしますね」
 伊藤はいつもの笑顔で楽しそうに近づいてきた。
「研究発表の疲れを全部ぶつけましたか」
「まぁ、そうだな」
 自分も久しぶりに笑顔で話していることに気づいた。
 伊藤から同じにしたいと言われて揃えたフットサル用のウェアは伊藤の好きなブランドの色違いで、伊藤が赤色で俺は青色だった。

 恥ずかしいのであまり着ていなかったが、今日はたまたま着ていたため、伊藤が嬉しそうに肘で俺の腕にこすり付けてきた。

 コートからロッカー室へ向かうと、同期の坂倉徹が後ろから俺たちの間に入り、二人の肩に手をかけた。
「お疲れ。日下部は久しぶりに来たと思ったら、無茶苦茶動いてたな」
「大きな仕事が一つ終わったんだよ。まぁ、仕事というか通常の業務と並行して上に頼まれてた研究発表なんだけど」
 伊藤は横でまた笑っていた。

「そうか、これからまた新しい生徒も入って忙しいだろう。俺も新入社員の指導で新しい苦労が出てきたからな」

 俺たちに掛けていた手を外し、一服したいなと坂倉はつぶやいた。彼は昔から桐谷健太のような雰囲気で、見た目もどちらかというと似ていた。ロッカー室に着くとロッカーから煙草を取り出していた。

「坂倉先輩、午後からはみんな予定あるみたいで解散になるんですけど。今晩空いてます?飲みませんか」
「おお、そうするか。俺も今日は空いてる。仁も行くだろ」
「ああ、俺は、今日は予定があるから」
 伊藤がすかさず口を挟んできた。
「ああ、愛犬のドックランですか?それはすぐに終わるじゃないですか」
「それもあるけど。お前、なんか俺の行動全部把握してるわけか」
「いやいや、ポメちゃんにまた会いに行きますね」

 板倉はライターを手にした。
「久しぶりに仁とも飲みたかったな。俺、煙草吸ってくるから。先に帰ってて」
「わかりました、あとからラインで場所とか時間連絡しましょう」
 了解と言って笑顔だけ残し、喫煙所へ向かった。
 

「あ、ところで日下部先生。この前の話なんですが。この前っていうかもう数か月過ぎますけど」
 汗が酷く、涼感シートで拭いてもベタつきは消えず、早く着替えて帰りたかった。
「なんだよいきなり、職場じゃないのに先生って」

「ええと、長瀬君の件で」
 急な話に驚いたが、なんとか表情には出さずに済んだ。あれからとくに音沙汰はなかった。つまり、生徒の長瀬からは何も言われることはないままだった。

 ただ、授業中に長瀬が今までにない気まずさを放っていることが気がかりだった。

 もう、数ヶ月過ぎてますし。忘れていたかもしれないんですが。長瀬君がどうしたら良いでしょうかって言ってました。
 伊藤は、気を遣うかのように丁寧な口調で一気に話をした。

「長瀬君がどうしたらって、どういう意味だ?もしかして、すでに彼氏が出来たとか。それか、礼奈さんが俺に興味がないか」
「礼奈さん?長瀬君のお母さんの名前ですか?」

伊藤は顔を少し曇らせうつむいた。
 まずいことになっているのでは、とでも言いたげな表情で頭を上げた。
「先生、もしかして」
「あ、いやいや、ほら朝のニュースに出てるだろ。ローカルなやつ」
「え、そうなんですか。知らなかったです」
「ああ、出てる。俺も全国ネットを基本は見てるけど。なんとなくたまに見ることもあるんだよ」

嘘だった。毎朝、欠かさず見ていた。

「へぇ、今度見てみます。いや、そうじゃなくて。話によると、長瀬君は勘違いしていたみたいなんです。実は、長瀬君母が良いなって言ってたのは、日下部先生のことだったみたいで」

 耳を疑った。
「え、伊藤じゃなく、俺ってこと?」
「そうです」
 顎を少し上にあげ、片手で顔を隠さざるを得なかった。嬉しすぎて顔がにやけていた。

 数秒、そのまま沈黙していた。
「日下部先生、大丈夫ですか?」
 伊藤の心配そうな表情に、馬鹿にした言い方の発言が聞こえたが。耳に入ってくる気がしなかった。

「それは、本当なのかな?」
「本当ですよ。嬉しいんですね、素直になったら良いのに」
 伊藤を見ると、あきれた顔をしていた。
 
 とてつもなく期待して待ち望んでいたことが、なんだか良い方向に進んでいるように感じた。
 伊藤がいつものように茶化すことが出来ないほどお馬鹿な先輩として見られている事にも、気づかずに舞い上がっていた。

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