背徳純愛小説『藍に堕ちて』第十六話「解放」
「じゃあまずは、作業の流れと柄の付け方について教える」
銀色の大きな作業台に移動した蒅は、白いハンカチを広げて置くと説明を始めた。
彼は壁を指差し、飾ってある柄入りの布地を見るように藍華に促す。
「ここにあるのが柄の見本だ。 折ったり縛ったりしてこういう柄をつける。どれがいいか選んでくれればやり方を教える」
隣にいる裕はまだ不満げだが、藍華の体験を邪魔しないよう気を遣ってくれているらしく並んで聞いている。
(どの柄も綺麗……だけど)
壁には額縁に入った柄見本が並んでいる。柄はひし形であったり雪の結晶のような柄であったりと様々で、薄い雲が一面に広がったようなものもあった。そのどれもが、藍色の濃淡が見事で美しい。
藍華は壁を見上げながらどれを選ぶか考えた。けれど、なんとなく選べずに、蒅に尋ねてみる。
「あの」
「どうした」
「何もしないで染めるのでもかまいませんか?」
藍華は柄を入れないことにした。手を入れずに、ただ藍の色だけを楽しみたいと思ったからだ。
彼女が尋ねると、蒅はほんの少し目元を緩めて頷いた。
「ああ、もちろんだ」
彼の表情がどことなく嬉しそうに見えるのは、気のせいだろうか。
「ならすぐにできるな。で、裕。お前はどうするんだ」
蒅が裕の方を見て言った。彼女はしばしうーんと考える素振りをして、それから軽く肩を竦めた。
「あたしも久しぶりにやろうかな」
「ならエプロン着てこい」
「えー。持ってきてよ。あたしだって今日はお客さんなんだから」
素っ気なく言い放つ蒅に裕が文句を垂れると、彼はぎゅうと深く眉間に皺を刻み嘆息した。
「……仕方ねえな。ちょっと待っててくれ」
「あ、はい」
藍華に断りを入れてから蒅は他の作業台の方に向かった。するとすかさず裕が喋り始める。
「やっぱ先輩と蒅って、波長が合うのかな」
「裕ちゃん?」
ふ、とどこか嬉しそうに、楽しそうに言う裕の言葉に釣られて彼女に目を向ければ、腕を組んでうんうんと納得したように頷いていた。
「柄を入れずに染めるのって、蒅が一番好きな染め方なんですよ。潔いからって、あいつずっと拘ってて」
「そう、なの」
「だからあれ見てください。すごく機嫌良い顔してます」
裕に言われて蒅を観察してみれば、エプロンを手に戻ってくる彼の表情が確かに明るく見えた。口角も僅かに上がって見えるし、纏う空気にどこか浮き立つような気配が窺える。
「ほらよ」
「ちょっと! 投げないでよっ」
ばさりと放られたエプロンを裕が慌ててキャッチする。藍色のエプロンは藍華がすでに身につけているのと同じもので、腰の後ろできゅっと紐を結ぶタイプのものだ。
「あんたはこっちで染めるぞ」
蒅はそのまま染液の入った石造りの囲いの前に移動すると藍華を呼んだ。
「裕、お前は向こうでやってろ」
「向こうって……あれ観光客用じゃん!」
蒅が工房の墨にあるプラスチック製の桶を指差すと、エプロンを着終えた裕がむっとした顔で怒り出した。
「あっちはもう色抜けしてて、薄いのしか染まらないのにー!」
「雑なお前には十分だろ。藍華はこっちので染めるぞ」
「は、はい」
裕の嘆きを鼻で笑い飛ばし、蒅は淡々と準備をしている。彼に名前を呼ばれたことに一瞬どきりとしたが、藍華は気づかない振りでやり過ごした。
「んもうっ! 先輩と対応が明らかに違い過ぎる……! そりゃあたしは雑だけどさっ」
「布の端と端を持つんだ」
「あ、はい」
歯ぎしりする裕を蒅は一貫して無視した。
どうやらこちらの石造りの方が職人用で、あちらとはまた違うらしい。
ぶつくさ言いながらも裕は蒅に言われた通り別の桶の方へ向かった。彼女は慣れた様子で作業を始めている。
一応納得はしたらしい。
藍華が苦笑していると、蒅がすっと彼女の背後に立った。首筋に彼の視線を感じた気がして、一瞬ぞくりとした感覚が背に走る。それに気づかないふりで藍華は指示通りに手を動かした。
黒く見える藍の染液の上で白いハンカチの両端を持つと、次の指示が後ろから聞こえてくる。
「そのまま静かに真っ直ぐ染液の中に入れていく―――そうだ」
蒅の低すぎない声が藍華を導いてくれる。
彼女は言われた通り白いハンカチを泡の建つ染液の中に沈めていった。もちろん、素手だ。
ほんのりと温かい染液がふわりと手を包む感覚がする。浸かったハンカチにみるみる色が染み込み茶色くなっていき、きらり、と工房の高窓から差し込んだ光が湖面に反射した。
「しばらく浸して、全体に染液が染み渡ってから上にゆっくり引き上げて空気に触れさせる―――ああ、そうだ。それでいい」
指示通りにすると、緑色になったハンカチが染液から姿を現した。これが藍色になるのか、と藍華が感心していると、蒅が染液の隣にある大きな水桶の方に移動し藍華を手招きしていた。
「これで一回目。本来ならこのまま染めを繰り返すんだが、初めてだからな。一度水洗いしてみるか」
「はい」
流水が注がれている水桶にハンカチを入れると、見る見るうちに水が濁り、反して緑色だったハンカチが薄い藍色へと変化した。冷たい水の中で鮮やかな色が翻る姿に、思わず見入る。
「綺麗……っ」
藍華の口から思わず言葉が漏れた。彼女の手には今、日本の青がある。
茶色い濁りが流水によって薄まり、透明になった水の中で揺らめく薄藍色のハンカチは、まるで水中花のごとく艶やかで美しい。
「化学反応を起こすと、こうも鮮やかな色になる」
引き上げたハンカチを広げて感動している藍華の横で、蒅が誇らしげに言った。
これが日本の伝統の色。
この国の青。
なんと美しいのだろうか。
これこそが、自然が生み出した本来の【色】なのだ。
「まだ一回目だからこれくらいの淡い色だが、藍は染めを繰り返すごとに色合いが変わる。濃淡によって四十八色に分けられるんだ。最も薄いのが「藍白(あいじろ)」、濃いのが「留紺(とめこん)」と呼ばれている。何度も染めて、自分の色を見つけていくんだ」
「自分の色……」
「どうする? まだ染めてみるか」
「お願いしますっ」
蒅の問いに藍華は前のめりに返事した。声が弾んでいるのは感動しているからだ。
自分の手の中に生まれ育った国の色があるという、この得も言えぬ感覚は、きっと体験した者にだけわかる特別なものだ。
藍華は今のこの淡い色も好きだったが、蒅が言っていた自分の色を見つけたくて染めを繰り返すことを選んだ。
もっとこの色の変化を楽しみたいと思ったのだ。
まるで子供のように、心が浮き立つ。
「……うちは江戸時代から続く「天然灰汁発酵建て」でやってる。木灰の上澄みや石灰、糖蜜を混ぜ合わせて、十日間かけて撹拌し藍を建てるんだ」
再び染液の前に移動しながら蒅が説明してくれる。確か、藍華がここに来る前に調べた情報では、現代の藍染には化学薬品を使う手軽な方法もあると書いてあった。しかし蒅の工房では伝統を守り手間と時間をかけた製法を続けているのだ。
「江戸の頃に比べれば、水質なんかも変わっているだろうし、厳密には当時の藍色と今の色が同じとは言えないかもしれない。だが原料や製法は限りなく近いものだ」
ハンカチを絞り、再び染液に浸しながら藍華は蒅の声を聞いていた。
彼の声に導かれるかのように、藍華の脳裏にかつての江戸の風景が広がっていく。
晴れた空の下、連なる店の軒先には藍色の暖簾(のれん)が風に揺れ、人々はそれぞれ違った濃淡の藍色の着物を纏っている。
藍は当時、もっとも人の身近にあったのだ。
生まれた地で、生まれた色。人から人へと継承されてきた色。
それが藍色。
その文字は、藍華の名にも刻まれている。
(素敵……自分の名前を、こんなにも誇らしいと思えたのは生まれて初めてだわ)
藍華の名は、母が今は亡き祖母から譲り受けた着物が藍染の品だったことが由来だと聞いていた。
たが母は藍染の用語である「藍の華」について知っていたわけではない。
最初は『藍』一文字で名前にしようとしていたところ、祖母が『華』の字を加えるよう助言したそうだ。
恐らく祖母は意味を知っていたのだろう。
藍染の着物を持っていたくらいだ。
そんな風に名付けられた自分が、由来である藍の華が建つ染液に今、触れている。
人生の岐路に立っているような状況でここに来たのは、運命と言えはしないだろうか。
それとも、たんなる感傷に過ぎないのだろうか。
(どんな意味でもいい……今の私、とても嬉しいもの)
藍華は純粋に、この瞬間を楽しんでいた。
染液に触れる優しい感覚。手にした布地の感触や、水の音。
すべてが、藍華の心を洗い流していくようだった。鬱屈した思いすら、鮮やかな藍色に染め変えられていく。
「……いい顔してるな」
「え?」
二度目の染めを終えた時、横から声がして咄嗟に振り向く。
すると蒅がじっと藍華を見つめていた。距離は、少し近い。
けれど相手のパーソナルスペースを脅かさない程度の近さだ。
「こういうものと顔を突き合わせると、人は自然体になる。素の自分が出るんだ。今のあんたのように」
瞳を細めた優しい顔で、蒅が言う。
「素の、自分……」
「今のあんたは藍に正面から向き合ってる。手付きは丁寧だし、何より染めを楽しんでる。元々こういうのが好きなんだろう。見てるとよくわかる」
どこか満足そうに彼が続けた。
蒅の目はまるで藍華を慈しむようで、言外に今だけは素直になっていいと言われている気がした。
(あ……駄目……)
ことり。
藍華の心にかけている鍵がひとつ、外れる音がする。
その先にあるのは、これまで夫にしか見せたことのない部分だ。
十七話へ続く
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