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背徳純愛小説『藍に堕ちて』第十七話「藍色変化」

「私……古いものや、長く続いているものが好きなんです」

 強い引力に引き寄せられるように、藍華の口からするりと本音が溢れ始めた。
 駄目だとわかっているのに、止められない。 

「昔は工芸品の豆皿とかを集めていたり、しました」

 綱昭と結婚する前のことだ。

 藍華は元々、洋食より和食の方が好きだった。一人暮らしの頃は毎日そうしていた。
 仕事帰りに立ち寄った陶器市で買った角皿は懐かしくも温かみのある竹の葉柄で、他に唐草模様の小鉢やひょうたん柄の取皿など、日本らしさのある器を好んでいる。

 その中でも、小さいながらも窯元の伝統と技術をしっかりと感じられる豆皿を藍華は特に気に入っていた。

 有田焼に美濃焼、九谷焼など、大人しい絵柄のものから華やかなものまで、少しずつではあったけれど、たまのご褒美に集めていたのだ。

 けれど綱昭は、そういった和食器を古臭いと言って嫌った。
 そのうえ彼は洋食派で、インテリア等もモノトーンの現代物を好み、食器も白か黒といったシンプルなもので統一していた。
 一緒に暮らすことになってからはほぼ必然的に、藍華は自分の和食器を使えなくなった。

 今はお気に入りの数点だけを保存し、時々こっそり一人で楽しむのみとなっている。
 使わないのに仕舞い込むのも器に悪い気がして、他はすべて手放した。
 そのことは、ずっと藍華の心の奥に引っかかっている。

「昔はってことは、今は違うのか」

「……はい」

 蒅と藍華の視線が交わる。

 濃い焦げ茶色に見える彼の瞳は、まるで染液そのもののような深い色合いで。
 気を抜けば一瞬で心に染み込んでくるような―――そんな、恐いくらいの強い目だった。

「そうか」

 蒅は、今は違うその理由を聞かなかった。けれど彼の目は、明確に藍華に疑問を投げかけている。

「……藍染が古くから人に愛されてきた理由の一つに、経年変化というのがある」

「変化?」

「ああ」

 蒅が静かに、けれど真剣な表情で語り始める。藍華は彼の目を見つめたまま聞いていた。

「藍で染めたものは、時と共に風合いを変えていくんだ。使い込むほどに色が落ち着いて、生地に馴染むことで独特の色味になっていく。だから同じものは一つとして存在しない。自分だけの色に育つ。それが藍染なんだ」

 蒅が視線を藍華の手元に向けた。彼女が三度目に染液に浸したハンカチは、今また染液で茶色くなっている。

 その色と、蒅の言葉が藍華の心で木霊する。

 それは湖面に一滴の雫が落とされたように音を立て、じわりと染まるように色を広げていった。

(彼は言ったわ。こういうものと向き合うと、人は自然体になるって。素の自分が出るんだって……その通りよ。私は好き。この藍染のように古くから続くものや日本古来のものが。それが『私』だわ)

「……濃い色がいいなら、あと二・三回は繰り返したほうがいいだろうな」

 ハンカチを染液から引き上げると、蒅に言われた。
 藍華は頷きながら、気付いてしまった事実に心で向き合っていた。

(私、いつの間にか……違う『私』になっていたんだわ)

 綱昭に惚れた弱みといえばそれまでなのだろう。
 藍華は知らず彼に好まれる自分を演じていたことに今更気がついた。

 好きなものを封印し、文句も喉の奥に飲み込んで。

 最初は違ったはずなのに、今やそうしなければ綱昭とは共に過ごせなくなっていたのだと。

 けれど―――それは『藍華』ではない。
 違う誰かだ。

(私は昔の自分に戻りたいのかしら……? だけど、そんなの無理だわ)

 不貞を働いた綱昭と離婚すれば元の自分に戻れるかと聞かれれば、答えは否だ。
 時は巻き戻せない。綱昭を愛したことも、彼に裏切られたことも、過ごした年月だって消えはしない。

「あと……藍で染めると、布は丈夫になる。持ちが良くなるんだ。ほかにも防菌、耐火の効果がある。大体八百度の熱まで耐えることができると言われてるな。だから昔は火消しの着物も藍で染めていた」

 無言で染液に目を落とす藍華を見ていた蒅が、さきほどの説明に補足を付け足す。

「八百度って……それはすごいですね」

 予想外の情報に藍華が素直に驚くと、蒅は黙ったままこくりと頷いた。

「まあ、昔は庶民が着物を買い替えるなんてそうそう出来るわけじゃなかったからな。長く大事に使うための工夫でもあったんだろう」

 なるほど、と相槌を打ってから藍華はハンカチをゆっくりと引き上げた。
 蒅が視線で「まだやるか?」と問うたので頷いて、四度目の染めに入る。

 あと少しな気がした。自分が求めている色になってくれるのを、じっと手を液に浸して待つ。

 濃く深く、強くなってくれるようにと願いを込めて。

(藍は変化をし続ける……そして染められた布は、強さを身につける。……そんな風に生きられたら、どれほど良いかしら)

 藍甕の湖面に藍華の顔が映り、彼女の隣で蒅が見ている。

「―――できるさ」

「え?」

 何も告げてはいないのに、蒅が藍華の心の問に返事をした。それにどくりと鼓動が跳ねて、藍華は目を見開いて彼を見た。

「あともう一度、染めてみるといい。きっとあんたの色になる」

「……はい」

 そう言った蒅は優しい、慈しむような微笑を浮かべていた。

 五度目の染めに入る時、彼が藍甕に手を入れ藍華の手に触れた。すぐ隣、至近距離に蒅の身体を感じて妙に緊張してしまう。綱昭以外の男性とこうまで近づくのはどれくらいぶりだろう……と思考が沈んだ時、大きな手に両手をがしりと掴まれる。

「このままゆっくり引き上げて―――待っていれば、色が変わる」

 藍甕から出た生地が空気に触れ、見る見るうちに濃い藍に変化していく。
 その様を、藍華は食い入るように見つめていた。

「見てみろ。あんたの手も、綺麗に染まってる」

「あ……」

 ひらりと揺れるハンカチは今や濃い藍色に染まり、それを持つ藍華の手も―――鮮やかな藍色に染まっていた。
 

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