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背徳純愛小説『藍に堕ちて』第十話「声音」

「あ〜やっぱ畳って最高! 帰ってきたって感じするー!」

「こら裕! ここは藍華さんのお部屋なんだから、貴女は自分の部屋で転がりなさいな!」

「え〜、あたし先輩と一緒がいいな〜」
 
 まるで駄々っ子のように言いながら、裕が畳の上で寝っ転がっている。

 彼女の母親はそんな裕を渋い顔で嗜めると、やれやれと言いたげに首を振った。 
 それから藍華を見て「ごめんなさいねぇ。この子ったら。お仕事でもご迷惑をかけてるんじゃないかしら」と続けた。

「いえ、私の方が助けてもらってばかりです」 

 藍華はスーツケースの荷解きをしながら笑って答える。
 裕達親子のやりとりは小気味よくて見ていて楽しい。

 (私とお母さんとじゃ、こうはならないな)

 藍華は親子らしい親子とはこういう感じなのだろうかと考えていた。 
 彼女の家では長男である兄が何より一番で、下である藍華は何かと二の次だった。
 大人になった今考えると、藍華は都合良く使われていたような気がする。それは今も同じかもしれないが。

 裕達親子のように気軽に母と話ができたことなどあっただろうかと、藍華はふと自身の家族を顧みた。

「裕は昔っから落ち着かない子で。だからお仕事もちゃんと出来ているのかいつも心配してるんですよ」

「失礼な。ちゃんとしてますー!」

「本当かしらね。藍華さんのおかげでなんとかやってるだけじゃない?」

「酷っ」

「ふふふ」

 裕が畳の上に寝転がったまま手足をじたばたさせている。
 そんな彼女を呆れ顔で見ている母親は、口調は意地悪でも声音はやはり優しい。遠く離れ東京で独り暮らしをしている一人娘が帰省したのが嬉しいのだろう。 

 二人の様子を微笑ましく思いながら、藍華は手を動かしつつ部屋の中を眺め見た。 

 裕の母親が用意してくれたのは建物の二階南側にある八畳ほどの和室だ。
 日当たりが良く、二重窓になった障子の白紙が眩いほどに輝いている。室内にはい草の爽やかな香りが漂い、窓からは風にそよぐ稲穂の海が広がっていた。

 まるで旅館の一室のようだと、藍華はこの部屋を用意してくれた裕と母らに感謝した。
 今の落ち込んだ気分を変えるには、これくらいの非日常感がちょうど良い。

 そう思う藍華の脳裏に、綱昭の冷たい横顔が浮かぶ。
 それはスマホを見ながらおざなりな返事を藍華に返している時の顔だ。
 今はもう、そんな顔しか思い出せない。

 (……駄目ね。こんな風に考えちゃ。連れてきてくれた裕ちゃんに失礼だわ) 

 後輩からのせっかくの気遣いを無駄にしたくはない。藍華は頭を振って暗い思考を追い払った。

「ーーーじゃあ藍華さん、ごゆっくりね。何か必要なものがあれば裕に言ってくだされば用意しますから」

「ありがとうございます」

「それじゃ裕、藍華さんのおもてなし、しっかりお願いね」

「はーい」

 裕に念を押して、彼女の母は一階へと降りていった。

「ほんとすみません先輩。うちのお母さんってほんとおしゃべりで」

 畳から起き上がった裕が苦笑しながら溜め息混じりに言う。

「裕ちゃんのお母さん、素敵な人ね」

「そうですかぁ? 田舎のおばちゃんまるだしって感じですけど」

 藍華の言葉に裕は首を傾げながら笑った。そしてふと思い立ったようにあ、と声を出す。

「そうそう先輩、このまま休憩してもいいですし、元気があるなら近所の案内もできますよ。歩いて十分くらいのところにスーパーがあるんで、もし必要なものがあればそこで買えますから」

 なんでも地元民御用達のスーパーなのだという。
 裕が子供の頃からある店なのだと彼女は説明してくれた。
 藍華はすぐさま頷いた。

「じゃあお願いしようかな」

「田舎なんで、品揃えは期待しないでくださいね? あーでも、近所のやつら、先輩のこと見たら腰抜かすかも。すっごい楽しみ!」

 裕が何ごとか続けながら含み笑いをしているのを横目に見つつ、藍華はそっと窓を開けて秋の風を顔に受けた。

 金色の田んぼの上を吹き抜けた風が、土と山の匂いを運んでくる。
 高く澄んだ空の下には、赤や橙に染まった山々が連なり、名も知らぬ鳥の声が遠くから聞こえた。

 違う土地、違う空気、景色、温度までも。

 藍華は今だけ、いつもとは違う自分になれているような、そんな気がしていた。

 (……土地が違うって、こんなにも気分が変わるものなのかしら。それとも……)

 綱昭と離れたことが、原因だろうか。

 藍華はまだ考えたくないことを思い出しそうになり、ふと視線を下げた。すると、いつの間にか横にいた裕と目が合う。

「……先輩?」

「ん、あ、ごめん裕ちゃん、何?」

 我に返った藍華は慌てて取り繕い笑顔を浮かべた。すると裕は一瞬だけ眉尻を下げ、何か言いたげな顔をする。
 しかし彼女は誤魔化すように曖昧に微笑むと、首を横に振った。

「……なんでもないです。じゃ、行きましょうか、先輩」

「う、うん」

 藍華は裕の様子を不思議に思ったが追求はしなかった。彼女は気付いているのかもしれない。藍華に何かがあったことを。
 けれど、無理に聞くつもりはないらしい。

 (気持ちの整理がついたら……いつか、裕ちゃんに聞いて欲しいな)

 藍華は裕の優しい気遣いを有り難く思いながら、まだ先になりそうな、けれどいつかは必ず来るだろう未来を束の間考えた。
 すると次の瞬間、裕のデニムのポケットからスマホの着信音が鳴り出した。

「あ、すみません先輩、ちょっと出ますね」

「うん」

 いそいそとスマホを取り出した裕は、画面を見るなり「ん?」と瞳を瞬かせる。

「あれ、蒅だ」

 名を聞いた瞬間、藍華の胸がどきりとした。無意識に彼の鋭く強い瞳が思い浮かぶ。
 それに気付かず、裕は画面をスライドさせて通話に出る。

「もしもし? ……何してるって、第一声がそれってどゆこと? 今から先輩と近所の散策に行くところだよ。スーパーとか案内しとこうと思って。え? わかった、ちょっと待って」

 出るなり裕の口から文句が飛び出る。どうやら蒅が何か言ったらしい。彼のことだ、恐らくぶっきらぼうに質問だけ投げかけたのだろう。

 車内で見た裕と蒅のやりとりを思い出していた藍華は、裕が急に顰めっ面になった後自分を見たので首を傾げた。

「先輩、蒅が話したいって言ってますけど、切りますか?」

「え……」 

 裕がスマホを少し耳から離して訊ねてくる。
 彼女のスマホからは微かに「おい」と怒っている声が聞こえた。

 (明日のことかしら……?)

 藍染め体験について話していたのでそのことだろうと思い藍華が頷くと、裕はもう一度スマホを耳に当ててからニヤリと笑う。

「蒅ぉ? あたしに感謝してよ。先輩連れて来たのは、あ・た・しなんだからね!」 

 それだけ言ってから裕はにやけ顔のまま藍華にスマホを手渡した。藍華が苦笑いしながら耳を当てると、蒅の呆れ声とため息が聞こえてくる。

「ったく裕の野郎……」

「あ、あの。お電話代わりました」 

 不機嫌な低い声。そんなものにもどうしてか胸が騒いでしまって、藍華は緊張のあまり仕事モードの話し方をしてしまった。 

 すると、次の瞬間ふ、と短い吐息混じりに笑った声がした。
 優しい響きだった。

「ああ、藍華。あんた、明日は来いよ。俺は準備があって迎えに行けないが、裕の奴に送ってもらえ」

「はい、わかりました」

「ん。……じゃあ明日。待ってる」

 また、と藍華が返せば最後にまたかすかに笑んだ気配がして、それから通話は切れた。

「蒅、なんて言ってました?」

「明日は裕ちゃんに送って貰うようにって」

「それだけですか?」

「ええ」

 裕にスマホを返しながら話の内容を説明すると、彼女は訝しんだ後に「あいつも隅に置けないなぁ」なんて零していた。

 しかしその呟きは藍華に聞こえていなかった。
 彼女の耳に残るのは、蒅のやや低い掠れた声音だけ。

 男性に待ってるなんて言われたのは、いつぶりだろうか。

「っ……」

 そんな風に思ってしまったのがなぜか恐ろしくて、藍華はぶるりと身を震わせた。 
 何か、駄目な気がするのだ。これ以上蒅に関わると、良くない事が起こりそうな気がする。 
 それは想定ではなく確信だった。

「ね、先輩」

「なあに裕ちゃん」

 気が付くと裕がじっと藍華を見つめていた。身長はやや藍華の方が高いため、見上げられているような格好だ。

 裕は藍華にどこか気遣うような笑顔で続けた。

「蒅、あいつ性格は悪いけど、良いやつですよ。……浮気なんて、絶対しないやつです」

「え?」

「ふふ。何でもないです。さ、外行きましょー!」

 裕はそれだけ言うと、藍華の手をぱっと握り彼女を外へと連れ出した。

十一話へ続く


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