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背徳純愛小説『藍に堕ちて』第十三話「真剣」

「蒅ー! 来たよー!」

 蒼い秋空の下、工房前では裕の声が大きく響いていた。

 藍華達が到着したのは午前九時ごろ。
 場所は裕の家から車で十分程度走ったところだ。

 徳島が誇る一級河川、吉野川から分流した川沿いにその工房はあった。

 玄関口には年季の入った板看板が掲げられ、黒い筆文字で大きく『蔵色藍染處(くらしきあいぞめどころ)』と書いてある。
 工房の隣には大きく古めかしい日本家屋が建ち、恐らく築百年はゆうに超えているだろう。

 裕曰く、蒅の家は何代も続く藍染處で、彼の祖父に至っては国から無形文化財保持者の称号を得るほどの名家だそうだ。

『蔵色の家は古くから続く『紺屋(こんや)』なんです。染め物屋のことを昔はそう言ってたんですよ』

 ここへ来るまでの道すがら、彼女はそう言って藍染について教えてくれた。

 かつて江戸の頃、着物をはじめ、のれんにのぼり、寝具にいたるまでありとあらゆるものが藍染で染められていたそうだ。

 時折、古い地名で『紺屋町』と名がついている場所はその名残なのだとか。

 明治になり、日本を訪れた英国人科学者が町のいたるところにある藍色を目にして「ジャパン・ブルー」と称した。
 これが怪談で有名な小泉八雲と混同されがちだが、彼の登場はもう少し後の話らしい。しかし、自著に記された藍色の詳細な描写から、彼もまた藍染の美しさに魅せられた一人であることは確かだ。

 そうして、藍色は日本を象徴する色となった。  

 今とは違う空気が流れていた空の下、鮮やかな藍色がはためく様は、異国人らの目を奪うほど美しい光景だったのだろう。

 藍華はこういった由来を裕に聞けば聞くほど、自分の名前が藍染に関していることが嬉しく思え、名付けてくれた祖母への感謝の気持ちが強くなった。
 
「ちょっと蒅ー! いないのー!?」

「あ、裕ちゃん」

 しびれを切らした裕が遠慮なく工房の中へと入っていく。

「……お、お邪魔します」

 勝手に入って良いのだろうかと戸惑った藍華だったが、軒先で突っ立っていても仕方ないかと裕に続いた。

(うわ……)

 一歩入った瞬間、空気に漂う独特な匂いに驚いた。

 正直言って良い香りとは言えない。
 けれど、土や水の匂いを鼻腔いっぱいに感じる。
 これが染液の匂いなのだろうか。

(暗い……)

 午前だというのに、工房内は全体的に薄暗く、足元には濃い影が落ちていた。

 高い窓から差し込む光が唯一の光源で、視界のコントラストがくっきりと分かれている。
 またテンポよく鳴り響く機械音と、ばしゃばしゃと跳ねる水音が空間いっぱいに広がっていた。

(工房ってこんな風になってるのね。あの生地……すごく綺麗)

 天井からは、さながら五月雨のように藍色の長い布が幾重にも垂れており、それぞれに濃淡や柄が違っている。
 藍染の色は四十八色あるらしいが、今見ているだけでも二十はありそうだ。
 真っ白な反物が混ざっているのは、染める前のものだろうか。
 藍華は工房内の光景に圧倒された。

(昔ながらの【職人場】って感じだわ)

 社会科見学に来た学生のような気分だった。
 もの珍しい光景に心が浮き立つ。
 使い古された道具の数々はどこか誇らしげで、大いに藍華の好奇心を擽った。

 工房は横に長い構造になっており、壁際には洗い場などの水栓設備が並んでいる。
 柄付けに使用するのだろう紙型が壁面を飾り、その中にはどこかのお店で見たような日本古来の柄の型もあった。

「裕、こっちだ」

 藍華がきょろきょろと工房内を眺めていたら、暗い奥の方から声が聞こえた。
 蒅だ。

「もー! いるんなら返事してよ!」

 裕がぷりぷり怒りながら声の方へ歩いていく。
 彼女は慣れているのか、雑然とした工房内でもすいすい進んでいた。
 蒅がどこにいるのかおおよそ見当がついているのだろう。

 奥へ行くと、やや高めの小上がりになったコンクリート部分の一箇所に、木蓋がされた大きな埋込み型の甕(かめ)が四つ並んでいた。ネットで見た画像ではあの中に糸を沈めて染めていたが、恐らくあれが【藍甕(あいがめ)】なのだろう。

 他に長方形の形をした水槽型の石造りの囲いもあり、中には沸々と泡だった藍の華が浮かぶ染液の黒い湖面が見えた。

 そして最奥、ひときわ大きな洗い桶の前に―――そこに、蒅がいた。

 彼は水がたっぷりと入った水桶で淡く色づいた青い生地を洗っていた。
 素早くけれど丁寧に生地を洗う姿にはどこか静謐さすら漂い、職人とはまさにこういうことなのだろうと思い知らされる。

 藍色の作務衣の袖は二の腕付近まで捲られており、たくましい腕の先にあるのはやはりあの藍に染まった手だ。

 水の中で藍色の指先が揺れている様はなんとも神秘的で、まるで彼の手から藍色が滲み出しているかのようにすら思えた。

 真っ直ぐに生地だけを見つめる表情には凄みすら感じ、藍華の目は蒅の姿に釘付けになっていた。

 真剣の剣は剣(つるぎ)。
 それを、彼の横顔に感じた。

「今は手が離せん。そこで待ってろ」

 洗う生地を見据えたまま、蒅が言った。

「ええ〜っ。アンタが指定したくせにっ」

「黙れ」

 文句を言う裕を切り捨てると、蒅は再び作業に集中し始めた。藍華は何も言わずに彼の動作に見入っている。
 目が離せなかった、というのが正しい。

「もおっ。……先輩、コイツこうなったらてんで駄目なんで、このまま待ってましょう。あれならもう少しだと思うんで」

 フォローしてくれているのだろう裕の声が遠くに聞こえる。
 藍華は相槌を打ちながら、けれど視線はずっと蒅の動きを追っていた。

(昨日とは、別人みたいだわ……)

 表情も、纏う空気も、動きも、すべてが昨日会った時の蒅とは違っていた。
 まるで研ぎ澄まされた刀のように、彼の動きには無駄がない。

 伝統を受け継ぐ職人というのは、みなこんな風に澄んだ振る舞いをするものなのだろうかと、藍華は職人としての蒅の姿にいわば感銘のような衝撃を受けていた。

 五分、いや十分だったのかもしれないが、蒅が作業を終えてこちらを向いた頃、藍華はやっと現実に戻ったようにはっとした。

 彼が手にしていた生地は既に天井から吊り下げられ、吹き込む風で揺れている。

「悪い。待たせたな」

「い、いえ……」

 ぐい、と額を手の甲で拭った蒅が歩み寄りながら藍華に言う。隣では裕が「ホントよっ、自分から時間指定したくせにっ」と息巻いている。

 けれど、蒅の職人としての姿に感動していた藍華には遠くに聞こえた。
 蒅がじっと藍華を見据えている。濃い焦げ茶色の瞳は鋭く、まだ先程の刃の切っ先のような気配が残っている気がした。

 そんな蒅が、すっと目を眇めたかと思うと、やや眉間に皺を寄せ口を開く。 

「なあ」

「はい」

「あんた、酷ぇ顔だな」

「え」

「ちょ、蒅!?」

 唐突な蒅の台詞に、裕が悲鳴に似た声を上げた。

十四話へ続く


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