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背徳純愛小説『藍に堕ちて』

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人は誰しも、愛されたいのだ。 この恋は不義か、それとも純愛か―? 三十二歳の兼業主婦、泉藍華(いずみらんか)は結婚六年目。 けれど、もう四年も夫とセックスレスだった。 仲が悪い… もっと読む
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背徳純愛小説『藍に堕ちて』第十七話「藍色変化」

「私……古いものや、長く続いているものが好きなんです」  強い引力に引き寄せられるように、藍華の口からするりと本音が溢れ始めた。  駄目だとわかっているのに、止められない。  「昔は工芸品の豆皿とかを集めていたり、しました」  綱昭と結婚する前のことだ。  藍華は元々、洋食より和食の方が好きだった。一人暮らしの頃は毎日そうしていた。  仕事帰りに立ち寄った陶器市で買った角皿は懐かしくも温かみのある竹の葉柄で、他に唐草模様の小鉢やひょうたん柄の取皿など、日本らしさのある

背徳純愛小説『藍に堕ちて』第十六話「解放」

「じゃあまずは、作業の流れと柄の付け方について教える」  銀色の大きな作業台に移動した蒅は、白いハンカチを広げて置くと説明を始めた。  彼は壁を指差し、飾ってある柄入りの布地を見るように藍華に促す。 「ここにあるのが柄の見本だ。 折ったり縛ったりしてこういう柄をつける。どれがいいか選んでくれればやり方を教える」  隣にいる裕はまだ不満げだが、藍華の体験を邪魔しないよう気を遣ってくれているらしく並んで聞いている。 (どの柄も綺麗……だけど)  壁には額縁に入った柄見本

背徳純愛小説『藍に堕ちて』第十五話「藍波」

「手袋はどうする?」  夜の海のような濃紺の染液がたっぷり入った藍がめの前で、蒅に聞かれた。  彼は工房の壁際に並ぶ棚に向かうと、引き出しを開けて何やら取り出している. 裕はまだ戻っていない。母親との通話が長引いているようだ。 「そのままでは駄目ですか」  揺れる水面を見ていた藍華が顔を上げて尋ねると、蒅がふり返り彼女の手元に目をやった。 「あんた、肌は強い方か?」  棚から何枚か重なった白布を持ってきた蒅は、染液の隣にある広い作業台にそれを置くと、再び藍華のそば

背徳純愛小説『藍に堕ちて』第十四話「淡藍薄布」

「あんた、酷ぇ顔だな」  そんな無礼な言葉を、他人から投げつけられたことなど、今までなかった。  だが藍華はいま目の前にいる男から実際に言われたのだ。 (急に、なに?)  唐突すぎて反応の遅れた思考がたちまちめぐり始める。怒りのせいだ。  しかし何か言う前に、顔を青くしていた裕がすごい剣幕で怒り始める。 「ちょっと! アンタってば先輩に何てこと言うのよ! 一体どういうつもり!?」 「どういうつもりも何も、俺は思ったことを口にしただけだ」 「それが悪いって言ってんの

背徳純愛小説『藍に堕ちて』第十三話「真剣」

「蒅ー! 来たよー!」  蒼い秋空の下、工房前では裕の声が大きく響いていた。  藍華達が到着したのは午前九時ごろ。  場所は裕の家から車で十分程度走ったところだ。  徳島が誇る一級河川、吉野川から分流した川沿いにその工房はあった。  玄関口には年季の入った板看板が掲げられ、黒い筆文字で大きく『蔵色藍染處(くらしきあいぞめどころ)』と書いてある。  工房の隣には大きく古めかしい日本家屋が建ち、恐らく築百年はゆうに超えているだろう。  裕曰く、蒅の家は何代も続く藍染處で

背徳純愛小説『藍に堕ちて』第十二話「返信」

 朝日と共に目を覚ました藍華は、まだ六時前という早い時間ではあったが久方ぶりにすっきりとした朝を迎えた。  階下からは、すでに家人の物音が聞こえている。  きっと裕の母親が朝食の準備をしてくれているのだろう。  手伝いに行くため、簡単に身支度を整えた。  するとふと、いつもよりも動きやすいことに気付く。   (身体、軽い……?)  十分に眠れたからだろうか。  疲労がすっかり消えていた。  普通、他人の家でこうも身体が回復することはないだろうが、藍華には逆だったらしい。

背徳純愛小説『藍に堕ちて』第十一話「自己嫌悪」

 いつもより濃く見える茜色が、スマホの黒い画面を照らしている。  反射した光はどこか刺々しく、ささくれた藍華の心を刺すようだった。 (……やっぱり)  ふう、と息を吐いて、窓の外を見る。  強い秋風に揺れる黄金の海原。美しいが、やがて刈り取られる運命を思うと虚しく、妙な不穏ささえ感じる。  それは、今が逢魔時と呼ばれる時間帯だからだろうか。  階下からは、ほのかに味噌の香りが漂ってきている。のどかな筈なのに、自分の心には早くも木枯らしが吹いている気がした。  裕曰

背徳純愛小説『藍に堕ちて』第十話「声音」

「あ〜やっぱ畳って最高! 帰ってきたって感じするー!」 「こら裕! ここは藍華さんのお部屋なんだから、貴女は自分の部屋で転がりなさいな!」 「え〜、あたし先輩と一緒がいいな〜」    まるで駄々っ子のように言いながら、裕が畳の上で寝っ転がっている。  彼女の母親はそんな裕を渋い顔で嗜めると、やれやれと言いたげに首を振った。   それから藍華を見て「ごめんなさいねぇ。この子ったら。お仕事でもご迷惑をかけてるんじゃないかしら」と続けた。 「いえ、私の方が助けてもらってばか

背徳純愛小説『藍に堕ちて』第九話「指輪の重さ」

「もしかしたら先輩、あいつに気に入られちゃったかもしれませんねぇ」 「え?」  裕の実家に着いて早々、蒅は二人を降ろすなり「仕事に戻る」と言って帰ってしまった。  彼のブルーカラーのSUVを見送った後、振り返った裕の言葉に藍華は首を傾げる。  そうは思えなかったからだ。  あの後はずっと裕と蒅の二人が口喧嘩を繰り返していただけで、藍華は彼とさほど話してはいない。最初に会った時に少し会話した程度だ。  しかも蒅はあまり感情が顔に出ないのか、終始無表情に近かった。変化が

背徳純愛小説『藍に堕ちて』第八話「視線」

「裕、お前後ろに乗れ」  助手席にはてっきり裕が乗るものだと思っていた藍華は驚いた。彼のようなタイプは気心の知れた人間の方を隣に座らせると思っていたからだ。  案の定、裕がなにやら意味ありげな顔をする。 「うーわ。蒅ってば、先輩が美人だからって目の色変えてるー!」 「あほ。いいから乗れ。藍華も」 「は、はい」  蒅は裕を冷たく一瞥してから濃いブルーのSUV車の運転席に乗り込んだ。藍華も促されるまま乗ってシートベルトをしたが、それでも後輩は含み笑いをしながら後部座席

背徳純愛小説『藍に堕ちて』第七話「藍華と蒅」

「ちょっと蒅《すくも》! アンタまたなんで作務衣なんかで来るのよ! どこも寄れないじゃない!」  裕が不機嫌そうにそう言うと蒅と呼ばれた男性が立ち上がった。彼は面倒くさそうな顔でじろりと裕を睨んでいる。 「うるせえぞ、裕……そっちの人がお前の先輩か?」  低い低音だった。けれどよく通る良い声だ。  黒い短髪に鋭い三白眼。作務衣を身に纏う身体はしっかりとしていて背も高く、一般的に見ても格好良い感じの男性だ。けれど、どこか近寄りがたい雰囲気があり、職人さんだというのも頷けた

背徳純愛小説『藍に堕ちて』第六話「出逢い」

 藍華はその日の帰宅後、綱昭に旅行のことを伝えた。  思った通り彼は快く了承してくれた。普段ならテレビにしか向けない顔を藍華に向けて、笑顔まで浮かべている。 「行ってもいいの?」 「後輩の誘いなら断れないだろ。俺のことはいいから楽しんでくればいいよ」  楽しむのは自分だろう、と嫌味が飛び出そうになる喉にぐっと力を入れた藍華は、いつから自分はこんな考え方をするようになったのだろうと内心悲しんだ。  ただの言葉をいちいち勘ぐらなければいけないのは心が疲れ、性格がねじ曲が

背徳純愛小説『藍に堕ちて』第五話「結論の先延ばし」

 秋は人肌恋しくなるのだという。  けれど触れ合う相手がいないなら、凍えた身体をどうやって温めればいいのだろうか。 「ねえ先輩、一緒に旅行いきませんかっ? それも徳島! あたしの実家があるんで宿泊費はタダですよ!」 「徳島? 裕ちゃんの実家って四国だったの」  お昼の休憩時間。  社食で親子丼を食べているなか、後輩の如月裕(きさらぎゆう)が身を乗り出してそう言った。  昨夜の出来事で塞いでいた藍華はその勢いに圧倒されて目をぱちくりと瞬かせた。  裕は藍華の六つ下で二十

背徳純愛小説『藍に堕ちて』第四話「ゴミ箱の残骸」

 せっかくだからと、藍華は帰り道にスーパーで綱昭の好きなお酒のおつまみを買った。生ハムの切り落としとスモークチーズがセットになったものだ。  彼は晩酌時によくワインを飲み、その時にこういったやや味の濃いものを好む。  今日は会社にまでわざわざ謝罪の電話をしてくれたのだからと、藍華は優しい気持ちでエコバッグを手にマンションのエントランスへと入った。するとエレベーター前に親子連れがいて目が合う。藍華は軽く礼をした。 「こんばんは」 「こんばんは。ほら、りっちゃんも挨拶なさ