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2021.9.5.SUN ワクチン1回目

秋が来た。近所の空き家で猫が眠りこけていた。ぜんぜん起きにゃい。

ワクチン1回目を打った。
接種券が送られてきてWEBで予約を取ろうとしたが、どの会場も延々1ヶ月先まで「×」。これじゃあ当分無理じゃんか。完全に出遅れた感。
お客さんやいろんな人から様子を聞くに、「ネットじゃ取れないよ」「専用電話にリダイヤル100回くらいしてやっとつながって予約できたそうだよ」「案外個人医院のほうが予約とれるよ」
ということだったので、「スマートニュース」というアプリの「ワクチンマップ」を見て「○」がついてる近所の医院に電話したら予約できた。

高校生の息子は午後半休して一緒に行った。
クラスでもぽつぽつ、「ワクチン接種休み」が増えてるという。
息子は「ワクチン打って死んだらどうしよう」と怖がっていた。
まあ、1回目じゃほぼ死なないんじゃない?
ワクチン打たずにかかって重篤になったり死んじゃう確率と、ワクチン打って死んじゃう確率、どっちがマシかってことだろうねぇ。

わたしはかかったら死んじゃうかもしれない。普段だいたい元気だけどそんなに過信もしてないので、むしろ重体になる自信がある。だから打つ。そしたらかかっても軽く済むという効果を信じたわけだ。

しかし高校生の場合どうなんだろう。刻々と変化する状況で絶対こうとは何も言えない。

予約時間に医院に行くと、接種券をにぎりしめた人たちが待合にたくさんいた。呼ばれたら上の階へ。先生による問診。その後接種ブースへ。

「はいそれではこちらで打ちますねー」
ロット番号のシールを接種券に貼る。クリアファイルの上から。
「・・・あのー、シールって紙に貼るんですよね・・・?」
「ああっ!またやっちゃった!!どうしよう!」 
「(また!?)」
クリアファイルからわーっとシールを剥がして紙へ貼り直す。
ぜひ、落ち着いてほしい。
なんというか百戦錬磨の看護師さんでもドキドキする特異なことなのだろう。
接種後は安静にすること、お酒はひかえること、お風呂はいいけどあんまりこすらないことなどの注意事項を一生懸命伝えてくれて
「はい、いきます!   っはいおわりました!
 ではこの紙に書かれた時刻までそちらで待機してくださいね」
注射の痛みはちくっとしただけでたいしたことなかった。

あとから打ったはずの息子は先にテレビの前で待っていた。
音声消されたパラリンピックテニス男子ダブルスを見て待った。
巧妙なチェア捌きに「うおう!」と思わず声が出る親子。

15分経ってなんともなかったので挨拶して帰った。
帰りにスーパーへ。息子と一緒に買い物などめっきりしなくなっていたので、「お注射がんばったから好きなもの買ってあげまちゅよー」などと言いながらカート押して徘徊する。

帰宅してお茶して各自自室でごろごろしていると
「・・・きたね」
「・・・うん、きたよね」
打った腕に違和感が。腕を上げると痛い。きたきた。
結局この痛みは翌日さらに強くなり、なんかの動作の折にいちいちてててて、となった。
しかしさらに翌日には
「・・・消えたね」
「・・・うん、おわったね」 さっぱりなにも感じなくなっていた。
2回目は9月末。次は発熱ぶっ倒れイベントになるのであろうか。

ワクチン打たない人もいる。打つ打たないは個人の自由。
アレルギーや体質で打てない人もいる。
だから「なんで打たないの?」とも言わないし聞く必要もない。

なかにはワクチン怖い人もいるから「ワクチン打った」とわざわざ言うのもな、という感じ。なんでも最近知ったんだけどワクチン打った人からスパイクたんぱくみたいなのが出ててそれに暴露したらやられるみたいな?
それには塩がいいらしくて風呂に塩入れたりニガリ飲んだり、大丈夫かなと思うけど心の安心ってそういう信じるもので保たれているんだろう。

原発事故のときもそうだった。
ぜったいに「0ベクレル」にしたい人たちが怖がってヒステリックになってて、広島は花崗岩が多いから放射線量高いんですよとか言っても「人工の放射能と自然の放射能はちがう」とのことだった。なんとか菌とか流行ったな。

昔「ロハス」という言葉やライフスタイルがもてはやされていたとき「その言葉嫌いだ」というどなたかのコラムを読んだ覚えがある。
「ロハスな生活とかって、一見地球や環境のことを想ってるようで、豆食ったり体にいいことしたり結局は自分のことしか考えていない」とあって膝を打った。

「自分のことしか考えていない」
ワクチンこわいとか放射能こわいとかの人たちの考えの背景に
すごく巨大な暴利を貪るものがわたしたちを騙してる
だれも自分たちを本当に守ってくれない
自分の身は自分で守らないといけない
というのがあるんじゃないかとぼんやり思う。
そういう世界線じゃあ、自分のことしか考えなくなって当然だ。

昔息子が1歳4ヶ月のとき、川崎病になり入院したことがあった。
治療法は確立しており、ガンマグロブリンという血液製剤を投与して炎症を抑えていくものだった。
しかしそこは「血液製剤」、旧ミドリ十字社の薬害事件なども思い浮かぶ。
投与前「投与によりなにがあっても文句をいいません(意訳)」という書類にサインを求められて胃が裏返るほど怖かった。しかし悩むほどの猶予もなく、震えながらサインした。
数十年後の息子に違う病気をもたらすのではないかという恐怖より、目の前の炎症を抑えなければ心臓血管に後遺症を残す明らかな恐怖の方が勝った。
そして、やはり心強かったのは主治医をはじめ支えてくれた医療者の人々の真摯さだった。長い時間積み重ねられた研究の成果と、現時点での最良に託そうと思えたのはやっぱり人への信頼あってのことだった。

コロナこわい
ワクチンこわい
こわいけど、だれかが、誰かのために、そして私のために
考えたり動いたり働いたり願ったりしてくれている、と思えること
他者の信頼、が感じられたら少しはこわくなくなるのではないか。

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と思ってこういう本を読んでいる。
日頃、自分の店すら半開きであんまり他者と関わることの少ない私だが、なにか「利他」が必要なんじゃないかと思いながら。
自己犠牲を伴わない利他は成立するのか、とか。考えたい。

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