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2021.11.2 TUE 透けてく50歳

もう11月なのか。10月終わっちゃった。
日記ぜんぜん書けなかった。
書くことがなかったんじゃなくて、特筆すべきことばかりで逆に書けない状態だった。
と、ここまで書いてほっといて今11/18(木)。1ヶ月前のこと、もう忘れかけてる。

10月に入り非常事態宣言解除。ワクチン2回目接種と副反応終えたので長らく休んでいた雲間の喫茶を再開しなくては。

これが思いのほか大変だったんですよ。
8月は天井から漏水とかでほぼ閉めてたし、9月もテイクアウトとお茶販売、まともに喫茶開いてなかったんですよね。

で、いざ開こうとしたが、これがまた

客用の盆がしっとり埃かぶってカビかけてて泣いた。
使わない部位は錆びるんすよ。退化するんすよ。人もモノも。
まずは大掃除から。
磨いたりメンテナンスしたりしながら手を動かし感覚を取り戻すリハビリをして、どうにか喫茶再開することができた。喫茶再開しながらもリハビリが続いた感じ。

そんな合間にずっと書こう書こうと思っていた手紙やメールをやーっと書いて、各方面に送ることができた。
蔵書をいただいた御礼だったり、ごぶさただけど元気?だったり、お誕生日おめでとうだったり・・・

そのお返事をぽつぽついただいて、ああお元気なんだな、とうれしかった。
ずいぶん会ってないからね。SNSでお見かけしていてもね。

なかでも印象的だったのが、かつて憧れていた中国茶界の先輩からのお返事だった。
大昔、お茶すげえ!!お茶面白れぇ!!と超盛り上がっていた若かりし頃、東京に茶旅し、お目にかかって憧れの中国茶のお店にもご一緒していただいたことがあった。もちろん覚えてらっしゃらないだろうけど。

その方が今年の夏の終わり、Twitterでお茶関連本の写真をあげて「この蔵書どれでも差し上げます」と。脊髄反射で「3冊いただきたいのですが!!!」とDMし送っていただいた。超うれしかった。かつて今より日本が豊かで出版文化にお金があった頃の本はよかった。内容はアップデートされていないとしても昔の本はほんとうにいい。

そして嬉しいと同時にさみしく思った。
重複や不要だとしても、蔵書を手放すというのはさみしい。
なんとなく、「お茶好きのライフサイクル」のようなものに想いを馳せてしまった。
誰だってビリビリっていう出会いを経て、お茶すげえ!!お茶面白れぇ!!と超盛り上がる頃がある。身代かけてお茶を買い茶道具を買いお茶を淹れ人に淹れもっと欲しいもっと知りたいと渇望するいわば青春期だ。
知識や経験を身につけ、一通りわかった風な気になって落ち着き、だんだん人に啓蒙するのがめんどくさくなり、一人であるいは気心の知れた人とだけ楽しむ茶になっていく。茶はどんどん内面化する。外からは見えなくなる。
どんな分野だってそうなんだろう。
自分は今どのあたりかな。
一人の茶が心地よくなりつつはあるな。

そんな折、お茶先輩からお返事のメッセージが届いた。
「今はお茶以外にも広く浅くいろんな趣味があって、小冊子などもだしている」というそのリンク先PDFを拝見してひっくりかえった。
これ全部お一人で!?
ご活躍だった頃からの全筋肉がみなぎる素晴らしい仕事だった。
勝手にライフサイクルがどうのこうのなどと思っていた不遜を恥じた。
一人で茶飲んでんじゃねーよ若輩が!!!と叱咤されたような気分。
そしてそのメッセージに返信しそびれて1ヶ月なう。噛み締めております。

10月も半ばを過ぎると、コロナ感染者数の減少とともに人の動きも戻りつつあった。数ヶ月ぶりに店の客席が満席となり、店中の人がお茶飲んでるのをキッチンから眺めて泣きそうになった。
ばらばらにやってきたお客さん同士が、一緒になんとなく話してるあの感じも戻ってきた。ああ、雲間が帰ってきたなあ。

東京から客人もあった。11月末のイベント打ち合わせのためと称して超絶うまい茶飲ませてもらった。
まず人に淹れてもらった茶がうまい。ありがてぇ。
そしてそのお茶を作った人のお人柄そのものみたいなすげえ茶を飲んで、なんか涙がでた。会ったことないけど健やかであれと願うような茶だった。
そんな茶に出会えたのはほんとうにありがてぇ。
このありがたさをどこかに還元しないといけない気持ちになった。

イベントにも久しぶりに参加した。
10/30(土)広島三越にて「さしものかぐたかはし」さんトークイベントにてお茶淹れ司会。
使わない筋肉は衰えますね。人前に姿を現すのも久しぶり、大勢の人様にお茶淹れるのも久しぶり、打ち合わせなしのトークライブ進行も超久しぶり。
しょっぱな「あ、なんか感覚鈍ってんな」と思ったけど徐々に慣れてだんだん楽しくなってすごくいいお話が聞けたのでよかった。

11/6(土)広島大学理学研究科「中学生高校生のための科学シンポジウム」遠隔ZOOMでの司会。
昨年もそうだったが今年度は全員の熟達感が違った。大学の先生たちも1年間遠隔授業で鍛えてたし、高校の先生や学生さんたちもWEBでの参加に違和感はないようだった。
画面の向こうの人々の息遣いを察するのは特殊技能だが、手紙の行間を読んだりインスタを翻訳しながら眺めたりする感覚に似てる。
それでもやっぱり一堂に会して同じポスター見ながらわいわい議論する経験には叶わないよね。来年こそはお会いしましょう!という挨拶に力こもった。

2つのイベント、内容は違うけど、参加して同じような体感があった。
自分が透明になっていく感覚だ。
雲間の寺本がどういう人間でなにを考えているのかなんて全くもってどうでもよくて、話す人、聞く人、その場の気分がどう流れているのかな、だけをさらさら追っていて、お茶を淹れるのも、しゃべるのも、全部どこか自分じゃないものの仕業のように傍観してる感じだった。

それは雲間の喫茶でも続いていて、いろんな方と話し、お茶を淹れ、説明し、掃除し、湯を沸かし、話し、ぜんぶさらさら、流れていくような感じなのだ。
今まではどこか「自分は」ちゃんとできたか、自分の思う成果との差分を考えて苦しくなったり足らないと思っていたのだが、自分がどっか行っちゃった感じなのだ。 さらさら〜

店を開く準備をしていたちょうど5年前、夜遅く、店のシャッターを半開きにして内装をごそごそやっていたときのこと。その半開きシャッターをくぐって見知らぬ家族が、お父さん、お母さん、娘さん、の順でずかずか入ってきたことがあった。
最高にギョッとして凍りついた。
「ね〜、ここ何の店になるん?」「ランチするん?」
お、お茶の店で、ら、ランチはしません・・・
「ふ〜ん」
お父さん、お母さん、娘さん、の順でシャッターくぐって出て行った。

ああ、
ここは道路なんだ。自分の店あるいは自分の部屋だと思ってたけど違う、ここは公共で、道路の続きで、誰もがこうやって出入りする場所、店を開くっていうのはそういうことなんだ、と思い知った。

当時は嫌だったんだよね、それが。
でも今は、うちの店は公共、と思うことが多くなった。
ちょっと都合が悪かったり体調優れなかったらすぐインスタに「休みます」とかアップしてシャッター下ろしちゃうような店なんだけど、しょうがねぇなあというお客さんに恵まれて、開いてる時には来てくれて、
ああ、お茶おいしかったです
ほんとにゆっくりできました
なんて言われると、そうでしょう、ここは公園ですからねと思う。

台湾からのお茶の輸入時に、とある輸入業者のお茶が残留農薬検査でひっかかり、以後全量検査義務付けとなった。今までかからなかった検査費用や保管費用がかかる。ただでさえ天候不順な昨今なのに、おいしいお茶が雲間に届くまでにどれだけのご苦労があるのか、ちょっと頭が下がりっぱなし。
そういういろんな方々のおかげで、このちっぽけな店で日本や中国や台湾のめちゃくちゃうまい茶が飲める。
ありがてぇ。
ありがてぇが増えるほど自分がなくなっていく。
自分は公園のすべり台くらいの役割しかないと思う。
さらさら〜 っとすべって遊んでいってほしいと思う。 

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