見出し画像

佐野貴司・矢部淳・齋藤めぐみ 『日本の気候変動5000万年史 四季のある気候はいかにして誕生したのか』 講談社ブルーバックス

先日、国立科学博物館へ「毒展」を観に行った折に売店の書籍コーナーの平台に積んであったのを買い求めた。関連の企画展でもあったのかと思ったら、著者が科博の先生方で、発行が2022年9月という、科博身内の近刊だ。ブルーバックスを読了したのはこれが初めてかもしれない。

近頃世間では「温暖化」ということが喧しく言われている。直接的に問題となるのは二酸化炭素の濃度のようで、温室効果ガスと呼ばれるものの排出を抑制しようと様々な試みがなされている。そういうものの説明には、多くの人が直接経験したであろうここ数十年程度の過去との比較で気温の上昇予想が語られている。そういうことについては以前に書いた。

また、お上系の広報でも温暖化対策としての二酸化炭素排出抑制を前面に据えている。その二酸化炭素の排出量が急増した原因が産業革命による化石燃料の消費の急増であるが、化石燃料の消費に伴って人口が急増していることも二酸化炭素排出量と当然関連しているだろう。

出所:国連人口基金
本書236ページ 図7-5 (A) 桜花・年輪記録から推定した気候(田上から引用)、(B) 気温(マンの図を簡略化)、(C) 大気中CO2濃度(マンシャウゼンらの図を簡略化)、(D) 太陽活動度(宮原の図を簡略化)

私は、いわゆる科学的な考察というものを展開する能力には恵まれていない。ただぼんやりと、二酸化炭素や気温や人口のグラフを眺めてみるのだが、印象としては、今更「温暖化対策」などといったところで手の施しようがない気がする。だからと言って何もしなくていいということにはならないのだろうが、「焼石に水」とか「気休め」という言葉はこういう状況を指すのだと、言葉とそれが指し示す内容との鮮やかな一致事例に思わぬところで遭遇して感心してしまうのである。

我々が暮らしている地球の地殻の内側はマントルという液状のものが対流している、なんてことは義務教育で教わったはずだ。その地殻は複数のプレートに分かれていて少しずつ動いている、なんてことも常識だ。だから地震が起こるわけで、そもそも我々の生活は足元が揺らいでいる。その地球は自転しており、自転しながら太陽の周りを公転しており、おそらく太陽を中心に公転している惑星集団丸ごとが何かの周りを回っている。そして、その「何か」は別の何かの周りを回っていると考えるのが自然というものだろう。そういう大きな話だけではなく、我々の身体を形成している細胞もそれぞれに生成成長老化消滅している。今この瞬間と全く同じ状態というのは後にも先にも存在しないのである。

「瞬間」と書いたが、世に「瞬間」というものはない。時間を止めることができないからだ。仮にある時点を取り出すことができたとの仮定の下に理屈を語っているわけで、「瞬間」とは観念でしかない。その意味で、「現在」というものも観念に過ぎず、そんなものはどこにもない、ということになる。我々には過去が残されているだけで、未来は空想だ。現在、過去、未来というとなんとなく座りが良いから皆で示し合わせたようにそんなふうに時間というものが流れていると思い込んでいるふりをしているだけのことだ。過去とは自分の成したことの結果。我々は良くも悪くも自分自身を生きている。

しかし、世間はなんとはなしに「安定」とか「過去の延長線上にある現在とその先の未来」というようなものを当然の如くに想定している気がする。「想定」というのは自分に都合良くするもので、そういうものがあると信じないことには社会の様々な仕組みが機能しないというのも現実ではある。自分もその世間の一部であることを承知していながらも、人間というのは呆れるほど身勝手だと思わないわけにはいかない。その身勝手な空想のためにどれほど多くのものを無駄に消費し蕩尽してきたか。

尤も、地球環境のほうは人間の身勝手に傷つけられながらも淡々と運動している。例えばミランコビッチ・サイクルというものがある。地球は太陽を中心とする正円軌道を公転するのではない。少し歪んだ軌道だ。その正円軌道と実際の軌道との乖離の度合いを離心率といい、約10万年の周期で大きくなったり小さくなったりする。地球の自転の軸である地軸は傾いていて、その傾きは約4万1000年の周期で変化する。しかも、地軸は独楽のように揺らいでいて、約2万3000年の周期で歳差運動をする。これらが重なって地球上では日射量の変化として現れ、気候に作用して氷期と間氷期とを繰り返す。これをミランコビッチ・サイクルといい、その周期が約10万年であるという。

本書189ページ

本書によれば、約1万年前から間氷期に入っており、細かな周期の変動による小氷期でその時々の人々の生活が脅かされた記録が残るものの、日本の気候は概ね温暖となっている。ミランコビッチ・サイクルが機能しているとするならば、まだ氷期の心配はなさそうだ。9万年後に人類がいるのかどうか知らないが、氷期に入り極地に見られる氷床が拡大を始めるとすれば、少なくとも現在当たり前に存在する農作物は育たなくなる。しかし、人類史というスケールにおいては氷期は経験済みなので、それで滅亡ということにはならないのかもしれない。それよりも、足元の急激な温暖化は未体験のことであり、やはり不気味に見えてくる。

変化それ自体は当たり前のことなのだが、変化の程度が問題だ。端的には農作物の生育にどのような影響が出てくるかということだ。1万年前あたりから間氷期に入ったことで、人類は農耕を始めることができ、今日の食料事情の基盤を得ている。具体的なデータは今持ち合わせていないが、飢餓の危険に晒されている人の数の数倍の人が肥満による健康危機に晒されているという話を以前に聞いた。世の中の風景として、食料事情や飢餓といったことの不安は然程感じない。しかし、落語の世界で下々の食い物だった鰯や秋刀魚の漁獲量が減少してもはや「大衆魚」と言える状態ではないとか、食物連鎖の変化によって鮪の味がかつてとはずいぶん違ってきているとか、我々の目には容易に映らない海の中はだいぶ妙なことになっているようだ。

我が家では味噌と梅干しは自家製だが、今年も先月の寒の内に無事に味噌の仕込みを終えた。大豆は富澤商店、糀は神田明神前の天野屋か三河屋 (今年は三河屋)、塩はその時々の家庭内の在庫を使っているが、どれも調達に問題は生じていない。そのほか、日々の暮らしで消費する山梨県内の脱サラ農家の野菜類、高知の黒砂糖といった生産者から直接購入しているものについては特段の異変は聞いていない。しかし、気仙沼の海産物加工品や大阪の昆布店から購入している真昆布は原材料となるものの漁獲量がここ数年顕著に減少しているとの話を聞いている。それがいわゆる温暖化と関係しているのかいないのか知らないが、自分自身の想定余命を横目に目先の環境の行方が気になるところではある。

今更どうすることもできないが、産業革命というのは人類にとっては或る一線を越えることだったように見える。毎年、立春の今時分から5月の連休あたりにかけて、エアコンを買うべきか否かを悩むのだが、そんなことはもはや意味のないことなのかもしれない。でも、やっぱりどうしよう?

読んでいただくことが何よりのサポートです。よろしくお願いいたします。