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忘れた頃に短歌生活

第13回「角川全国短歌大賞」作品集が届いた。応募したことをすっかり忘れていた。既に押し入れに仕舞い込んでしまった去年の手帳を引っ張り出して調べてみたら、昨年12月13日に職場近くの郵便局から投函したと記されていた。自由題2首一組、題詠1首で応募することになっていて、自由題だけでの応募はできるが、題詠だけというのは不可となっていた。受賞作品は月刊誌『短歌』6月号に掲載されていたのだが、応募したことを記憶していなかったので、全く関心の外だった。尤も、受賞していないので、そこに気がついていたとしても「月例落選」に書く歌が3首増えるだけなのだが。

この回の題詠は「火」だった。

火の車回し続けて還暦を迎えいよいよ火の元尽きぬ

星印が付いていたので、予選は通過したらしい。この歌に関連した歌を最近詠んだのだが、2ヶ月後に「月例落選」で紹介することになるだろう。この歌の説明は必要ないだろう。何の裏も奥行きもない、字面のまんまの歌だ。

自由題は2首だが「短歌生活」に掲載されるのは1首だけだ。掲載された方の歌がこれ。

セルフレジ頭をかざしてピッと鳴り「見切りピーマン65円」

星印がないので、予選を通過しなかったということだ。スーパーのセルフレジで赤いバッテンの光に商品のバーコードをかざすとピッと鳴ってディスプレイに商品名と価格が表示される。ここに自分の頭をかざしてみたらどのような表示が出るかなぁ、といつも思うのだが、やってみる勇気がない。意気地なしだ。腐り始める寸前の見切り商品のピーマンなら話のネタになって面白いが、エラーになって警報音が激しく鳴り響いたらどうしよう、という心配もある。でも、いつかやってみたい。

もう1首は箸にも棒にもかからなかったということだろう。

旨いものたくさんくれるところこそ今の私の税の「ふるさと」

うまいもの たくさんくれる ところこそ いまのわたしの ぜいのふるさと
と一応、五七五七七になっているというだけのテキストだ。言わずと知れた「ふるさと納税」のことを詠んだ。テレビもなく、新聞や雑誌も購読していないくらいなので、世情に疎い。ふるさと納税のことは以前の職場の同僚に強く勧められた。「熊本さん、絶対やったほうがいいっすよ」と。もう何年も前のことなのだが、当時、彼には中学生の息子が二人いた。「もう、果てしなく食うんで、やんなっちゃうんですよ」と言うのである。元気で結構なことだが、米は安いものではない。それで彼はふるさと納税に目をつけたらしいのだ。今は「お礼」が寄付金の3割以内という目安ができて、以前のような奇抜なものがなくなってしまったが、当時はブランド米の産地ではないところの「お礼」で、10,000円の寄付で米60kgなどという自治体がけっこうあって、彼の家計の救世主となっていた、らしい。

私は初め「ふるさと納税」というものが理解できなかった。どうして縁もゆかりもない自治体に「納税」することができるのだろう?「納税」と呼ぶから妙な感じを受けるのであって、これは要するに寄附金控除なのである。かねてより税の不公平は感じていたので、うまいこと考えた制度だと得心した。しかし、「ふるさと」に関係あることもしておいた方が、心の収まりが良い気がして、毎年一定額は家人の実家がある新潟県や柏崎市に「納税」して米とか柿をいただいている。それ以外は旨そうなものをたくさんいただける自治体に積極的に「納税」している。

これらの歌と同時期に詠んだものは『短歌』3月号への投稿だった。

「角川全国短歌大賞」の受賞作品が掲載されている『短歌』6月号についての記事はこちら。

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