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いつくしむって言いにくい

こんばんは。

慈しむ《いつくしむ》って言いにくくないですか?

どうも、くまです。

なんだか油断すると「いくつしむ」とかって言いそうになっちゃうのはたぶん私だけですね、はい。

厳島神社とかね。

世界の歴史まっぷ」さんのサイトより

行ったことないですけどね。

行ってみたいです!

そして全くかんけーないし、話が脱線しました。

こんなテンションか!

はい、こんなテンションです。

久しぶりのnoteなのでお許しください。

久しぶりにnoteに来てます。

なので、書き方にブレが生じています。

以下、本題。


私が長きに渡って懇意にさせてもらっているバクゼンさんというnoterさんがおりまして。

彼女はいつも特大の愛で包んでくれるのです。そして私はバクゼンさんのユーモアが大好きです。

その方がこんなnoteを書いてくださいました。

これは完全なるバクゼンさんの「問い」だと思いました。この記事のスタイル画期的!私もいつかパクリマネしたい!

素敵な問いを置いてくれています。

わくわく、わくわく。

私は人が発する問いが割と好きです。

なんで、なんで?

大人になると、なんでなんで?って聞きにくいですよね。子供の頃は「ねえねえおかーさん!これ何ー?」「〇〇ってどういう意味?」って全く遠慮なく聞いてましたが、大人になると聞けなくなるのは、なぜなぜ。どうして。

私は割とどんくさいし、手術の麻酔もすぐに効かなくて、一緒に数を数えていた看護師さんが「え?この人まだ薬効いてないの?」みたいな表情を見届けながら意識を失った猛者なので(猛者なのか?)

おそらく神経が鈍いのです(知らんけど)

それゆえ、なぜなぜ?に気づかないことも多いのですが、そんな私でもなぜー?は湧いてくるし、なぜー?を聞ける人というのは重宝しているのです。

いつも私のなぜー?なんでー?を聞いてくれている方たち。ありがとうございます。

なんでー?はあなたへの批判ではないのです。
なんでー?はあなたを、違う世界を「知りたい」のです。

それがわかっている人に私は思いっきり甘えてなんでー?を日々やっています。

また、話がそれましたね。

私は、バクゼンさんがこのように問いを置ける環境にあることは、大変良いことなのではないかなと感じています。


本題になかなか入らない(笑)

大変お待たせしました。
バクゼンさんの、皆さんへの質問を振り返ってみましょう。

今を生きる
今を慈しむ

と言いますが、これが私にはずーーっとずーーーっとわからないのです。
物事を丁寧におこなうということなのか。
集中するということなのか。
感覚を研ぎ澄ますということなのか。
その全部なのか。

バクゼンさんのnoteより

いきなりこんなことを書き始めたのは、ある対談番組のなかで、「今を慈しむ」という言葉がいつにも増してぐっと響いたからです。もしかしたら、私は今そういう何かのタイミングなのかなと、思ったのです。

でも、それがどういうことなのか、どうもわからない。
昔からわからない。
それで、みなさんにとっての「今を生きる」「今を慈しむ」って、どんな意味なのか、どういう時がそれにあたるのか、聞いてみたいなと思ったわけです。
みなさんの「今を生きる」「今を慈しむ」を教えてください。

「教えてください」

えーとね。

よくわかりません。


え?

ここまでひっぱっといてわかりませんってなんなんだよと思われたでしょうけども。


私もよくわからないんです。

普段「ああ、今、これ、私は慈しんでるなぁ」って感じながら生きてることはほぼないかもしれません。


そもそも「慈しむ」ということばが私はよくわかってない。調べてみました。

慈しむとは:
かわいがる。いつくしむ。大切にする。うつくしぶ。

これ、読んでて思いましたが「いま」っていうのはなかなか難しいのでは...なんて思いました。

後から振り返って
ああ、あの時私は、〇〇を慈しんでいたんだなぁって思うことの方が多い気もします。

でもね、もうちょっと考えたい。

バクゼンさんの記事のこの部分。

いきなりこんなことを書き始めたのは、ある対談番組のなかで、「今を慈しむ」という言葉がいつにも増してぐっと響いたからです。もしかしたら、私は今そういう何かのタイミングなのかなと、思ったのです。

慈しむことや今を生きることはわからないけども、いつにも増してぐっと響いて、タイミング的に考えたい!と思ったのでしょうから。

やっぱり一緒に考えたい!ですよね。

それで、この記事にはたくさんの方がコメントを寄せられてます。中にはきちんと記事にして書いてくださった方もいます。
これだけの慈しむが置かれていて、そして、バクゼンさんがあたたかく打ち返している。
私もすごく学びや発見になりました。皆さま読ませて頂いてありがとうございます。

そこには今回の問いへのたくさんのヒントがあると思います。そしてそこからバクゼンさんが受け取って返したものが、大きなラインを描いていくと思うのです。でも、今後またそのラインも色々なものに触れてカタチが変化していくかもしれない。

私はずっと「わからない」でいいと思っています。
何事も。

ラインは変化する。


わからないという場所に身を置いているといつまで立ってもわからないんです。正解はない。

でもわからないながらもわかろうとする姿勢を持ち続けることで、きっと、もっと深く、広く、高く、あるいはきめこまかく、考えている出来事の解像度が上がってくるのではないだろうか?と思ったりしてます。

そんなバクゼンさんを心の底から応援してるし、一緒に考えたいなと思うのです。


それでですね、わからないながらも一つの詩をここで紹介します。

谷川俊太郎さんの詩です。

誰にもせかされずに

誰にもせかされずに私は死にたい
そよかぜが窓から草木の香りを運んでくる
大気がなんでもない日々の物音を包んでいる
できたらそんな場所で
もう鼻はその香りをかげないとしても
もう耳はもっとも身近な者の嘆きしか聞けないとしても

誰にもせかされずに私は死にたい
愛し続けた音楽のように心臓をリタルダンドさせてやりたい
宴のあとのまどろみのようにゆっくりと夜へ入ってゆきたい
もう脳が考えることをやめたあとも
考える以上のことがまだ私のどこかにとどまっているかもしれないから

それは私が自分を惜しむからではない
死のひんやりとした指に手首をつかまれた人々の
あのはらわたのよじれるような不安とあがきを感じないからではない
私はただこころとからだをひとつに運命に従いたいだけ
野生の生きものたちの教えにならって
ひとりで

誰にもせかされずに死にたいから
誰にもせかされずに私は死にたい
丸ごとのただひとつのいのちのままで私は死にたい
限りあるいのちを信じるから
限りあるいのちを慈しむから
今も そして死のときも

誰にもせかされずに私は死にたい
扉の外で待つ者が私をどこへ連れ去るとしても
それはもうこの地上ではないだろう
生きている人々のうちにひそやかに私は残りたい
目に見えぬものとして
手で触れることの出来ぬものとして

いい詩だなと思います。

「慈しむ」も出てきます。

なんとなくね、私が思うに。

せかされない

ってワードが出てきますが
誰かに何かを強要されていて、自分らしさから離れた行動をしている時は、なかなか慈しむという態度をその時は取れないような気もします。

あとからよくよく考えると慈しむべき時間であったなと振り返ることはできそうですが、なんとなくその瞬間は今だ!とは思えなさそう。


あとは感覚と感情

自分のこころと

自分の体が

マッチしている時。


私の場合の話をしますが

最近やたら

「幸せだなぁ」って言うんですよ。
自分1人でね。
思った時につぶやく。
完璧な独り言です。

おいしいもの食べたなぁとか
子供達かわいいなぁとか
よく寝て気持ちいいなぁとか
お布団あったかくて心地よいとか
風がふいていい感じとか
お花がいいにおいとか
素敵な風景に心躍ったりとか
好きな人と一緒にいてたまらんとか

そういう時に幸せだなぁって思っていて

そんな自分や今ここにいるものたちが愛おしいなぁって思います。

で、そんな時はたぶん、五感などの身体感覚を伴うときや感情が動いた時なのだと思うのです。

それが私なりの慈しんでる感じなのかもしれない。私の「慈しむ」は幸せも伴っているのだなとたった今気付きました。


あと、もう一つおまけの話。
以前違う記事に書いたことがある話で、私は実践できてる時とできてない時があるのですが

「ゆっくり噛んで味わう」

をやってみてくださいと。

以前、西村佳哲さんからお話を伺ったことがありまして。

日常を構成している何気ない動作を丁寧に行うことで、自分が変化するよって話なんですね。

歩くとか
食べるとか

そういうシンプルな行動。

物事を丁寧に行うことは自分を大事にしていることと繋がるような気もします。大事にしてる感じはなんとなく慈しんでいるに近い気もする。


やれる時はやっているんです。

でもやれない時もある。むしろその方が多い。

なんでかというと、やっぱりそんなに時間が取れない時もあるし、精神的な余裕がなかったりする。

だから、ずっと慈しむはできなくてもいいんじゃないのかな...と私は自分に甘いので思ってしまう。

そんなにずっと意識して生きてられないよって思うし、もうそんなに意識してなくても、変な話どんな瞬間も慈しむべき価値はあるなと自分で思えたら、それはそれでいいんじゃないかなって思います。

あと、慈しむの反対のような場面があるからこそ、慈しむ時間というのが、ひときわ光をはなって光り輝いて感じられるのかもしれません。


さいごに

慈しむことが頻度として増えたら、その人の人生は何が変化するのかなぁと想像したりもしました。

バクゼンさんがこれからまた変化して受け取っていくものを、これからも教えてほしいなと思うし、やっぱりわからないなぁ...が続いているのも、また楽しいことだと個人的には思いますので。

わからないながらも
わからないと共に歩んでいく道の中で
きっと発見があるかもですね。


今日はこんなところで終わりにします。

サムネイルの写真は野菜と果物の絵を描きたいから、せかせかと場所を作って、俯瞰して眺めた時の我が家です。

私にとってささやかな慈しむべき時間だなと思う場面でした。

それではまた!





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