083 子どもは親より少しすぐれている

そう言ったのは、ボクより少し年上のお客さんです。

彼は、かつてボクと同じ広告制作などクリエイティブの世界にいたそうです。ボクは企画畑で、彼はデザイン畑。
おそらく、ボクよりずっと優秀で、大きな経験をしてきたのだろうと思います。話していて、この人は経験の質が違うって感じること、ありますよね。

その世界からとっくに退いて、彼は東北にある生まれ故郷のそばに引っ越しました。車で20分ほどのところにお母さんが住んでいるそうです。

隠遁生活?って思うでしょ。とんでもない。今も現役のデザイナーとして仕事をしています。
しかも、その体格の良さは尋常じゃありません。実際には60代後半、もしかしたら70を超えているかも。でも、現役のスポーツ選手と言っても通るくらい。

で、クライアントから頼まれて、スポーツやサプリメントの広告モデルとして、年に3、4回ほど東京へ撮影にやってきます。
そのたびに、ボクの店に顔を出してくれるのです。

彼が初めて店にやってきたのは、2年あまり前でした。つまり、ボクがこの店を始めてしばらくしてからになります。余談になりますが、あらゆる出来事をコロナ前か後で測ってしまうのは何故でしょう。そのうち、BCのCの意味が違ってしまうかもしれませんね。

彼が来ると、いつも80年代や90年代の回想談になります。おもしろかったけど、二度と繰り返したくない、あの猥雑で狂騒の時代。

ボクは少し遅れてきた世代で、80年代半ばから90年代にかけて、ひたすら仕事をしていて、遊んだ記憶はほとんどありませんが、その当時の熱気は共有しています。

朝方2時時過ぎまでオフィスで仕事をしていて、タクシーを拾おうとしても空車は走っていません。
当時、オフィスが東渋谷にあったので、西麻布まで歩いて行って、立ち飲みバーで2、3杯ひっかけていると、4時頃、ようやく客を降ろしてきた空車のタクシーが店の前で拾えました。

「ええー? もう事務所に帰ろうと思っていたのに」と運転手。
「まぁ、そう言わずに。この狂騒もそう長くは続かないから」
「縁起でもない。。。」
「ホントさ。そうなったら、客なんて何時間待っても見つからないよ。まして、こんなに長距離の上客なんて」
「そんなぁ〜。。。でも、こんなこと、いつまで続くんでしょうねぇ」
「みんながそう思い始めるまでじゃないの」
なーんて会話を交わして笑っていたものです。笑うしかないような狂想が至るところを席巻していました。

丸の内に勤めるOLが朝、満員電車の中で競馬新聞を読んでいた時代。ええっ?もう満員電車なんてって、そっちが時代遅れかぁ。。。

当時、麻布十番にあったMAHARAJAに遊びに行ったことはありませんが、あそこを借り切ってパーティをやっていた企業の取材に行ったことはあります。
カメラマンが写真を撮っている間、手持無沙汰のボクの眼前に広がっている光景は、天国というにはあまりに空虚で、これが続くとはとても思えませんでした。志村喬が映画「生きる」でブランコに揺られながら、「命短し恋せよ乙女」と歌った世界の未来がこれなのかと思ったものです。単にボクが田舎育ちだっただけかもしれませんが。。。

話戻って、彼とボクの認識は一致していて、我々はどうしようもないバカだった。もう二度とあんな時代に戻りたくないし、戻ってはいけない。
いつも、そんな話で終わります。

人は自分の一代を生きています。つまり、過去の過ちや分析、反省を遺伝子に組み込まれて生まれてくるわけではありません。つまり、よほど気を付けていないと、度々同じ過ちを繰り返してしまいます。

埴谷雄高がいうところの「存在革命」を誰もが一代で成し遂げないといけない--この考えにボクはずっと憧れてきました。アナキストの妄想って奴ですね。

そういえば、うちの店でやっている「誤配だらけの読書会」の一番若いメンバーが先日遊びにきてくれたときに、「この本、めっちゃ面白いです」と表紙を見せてくれたのが、栗原康『サボる哲学』。

超ビックリ。
ボクも『村に火をつけ、白痴になれ  伊藤野枝伝』をちょうど読んでいたところ。『アナキズム‐-一丸となってバラバラに生きろ』もいいですね。
一丸となってバラバラに生きろ、ですよ。

同じ作者の本を同じ時に読んでいるなんて、奇跡じゃないかと思ったくらい。でも、これじゃ誤配は生まれないか。。。

その日、店を閉めて彼と行った野菜と日本酒の店も奇跡のような店でしたが、その話はこの次にでも。ひたすら野菜しか出ないんですよ。

再び話戻って、彼はそう言ったのです。
「子どもは、我々親より少しすぐれている」と。
確かに、そう思えば未来に絶望することもないですね。
かつてコピーライターだったのはボクのほうなのに、一本取られました。

そんなことがあった数日後に、「OSLO  オスロ」って映画を見ました。
1993年にあったオスロ合意の実話を、スティーブン・スピルバーグ総指揮で映画化したものです。

えっ、何が言いたいかって? 人類は様々な過ちを犯しますが、時々、信じられないような奇跡を起こします。
ベトナム戦争が終わった時、イギリスとアイルランドの闘争が終わった時、ドイツ・ベルリンの壁が壊された時、ソビエトが崩壊した時、南アフリカでマンデラが釈放されて大統領になった時、、、アナキストのボクは人類って捨てたもんじゃないと思いました。

以来、ボクは小さな奇跡を集め続けています。その収集録が、この連載であり、『足はいつだって前を向いてるじゃん』という本に結実したともいえるわけですが。

そして、オスロ合意。残念ながら、今もまだガザでは信じられないような虐殺や戦闘が続いています。
でも、一度その負の連鎖、歴史の怨念を断とうとした人たちがいたのです。遺伝子に刷り込まれているわけでもないのに、歴史の怨念は語り継がれることで連鎖されてしまいがちです。

そう、彼は「子どもは、我々親より少しすぐれている」と言うのです。それが人類の基本だと。

人類の間でも、シンギュラリティってあるのかな。。。
そんなことを思いました。でも、一人ひとりが一代で積み上げていかないといけない生身の人類には、ちょっと荷が重いですね。

でも、ボクはその言葉を信じたいと思っています。だって、そういうことを言うのは、彼で2人目ですから。
先日亡くなったボクの親友が、最後に「大丈夫、この国はよくなるよ」と言ったのです。この国は、世界は大丈夫なのかと呟いたボクが彼の枕元を離れて、帰京しようとしたその時に。

きっと大丈夫。
そう、ボクたちには無限の可能性を秘めた子どもたち、つまり次の世代がいます。
藤井聡太二冠や大谷翔平選手を見ていると、もしかして人類も、奇跡的に過去の蓄積の上に育つってことがあるのかって思ったりします。

突然変異?
ウイルスの変異ばかりが話題になっていますが、我々の細胞だって増殖と変異を繰り返して生きているわけですから。いや、それをボクは突然変異や偶然とは思いたくない。

8/14(土)15:00~は「投げ銭サイエンスcafe」で、変異をめぐる最先端科学について、我らがリナ先生が講義してくれます。この夏どこにも行かないアナタ、ぜひ参加してください。

告知ついでに、
7/24、25日16:00~は映画「まちの本屋」上映会。
8/7(土)17:00~は映画「Dal Segno」上映会。
こんな状況でも、カメラを担いで未来と格闘しているクリエーターたちがいます。

子どもたちを信じて、未来を託すことにしましょう。

柄にもなく、今回はちょっと生硬な原稿になってしまいました。申し訳ありません。もの思う秋、、、にはちょっと早いか。
では、猛暑のせいでなかなか眠れず、今回は人類の可能性と奇跡について考えてしまったってことで。

おにぎりを ソフトクリームで 飲みこんで 可能性とは あなたのことだ(雪舟えま)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?