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建築家本間乙彦の仕事④-地域のお宝さがし-116

今回は、建築家本間乙彦の教員採用や勤務の状況などをみていきます。

■都島工業学校建築科教諭■(大正13年~昭和4年)
 本間は、「公式の略歴」(第113回表1)では、大正13年(1924)3月(注1)から昭和4年(1929)までの5年間、「大阪市立都島工業学校建築科教諭」として勤務しています。

注1)『創立百周年記念都工のあゆみ』(大阪市立都島工業高校、2007年)。            退任年月は不記載であるが、学年暦より昭和4年3月と考えられる。図             1・2は同書より転載。

●渋谷五郎の決断● 
渋谷は、西村辰次郎から、本間は「非常に技術がよい」と聞かされても(注2)、東京高工在学中の、意匠は上手であるが自由奔放な本間しか知らないので、とにかく面会し、本間の卒業後の仕事などの話を聞き、「教員にならぬか」と聞いたところ、本間は、「学生監で居られた杉田さんが校長では僕を採用してくれないだらう」と、笑ったといいます。

 学生時代の本間(当時は稲田)の、服装や髪形に対する杉田学生監との確執を、本間は自嘲したのでしょう。これに対し、渋谷は、「教員としてのやり口を心得てキッチリ時間的に仕事を守ってくれられゝばよい」といい、さらに、本間の、「自分は此の窮迫した時だからどんな勤めでもするつもりではある」との心構えを確認して、杉田校長に推挙します。渋谷が建築科教員の採用を担っていることから、当時、建築科長であったと思われます。なお、学生監杉田稔は、大正7年に市立大阪工業学校2代目校長として赴任しています(図1)。

図1 杉田稔校長

 本間の履歴書を見た杉田は、東京高工の「稲田弟彦」が、現在の「本間乙彦」とは気がつかなかったようで、杉田から「当局に上申」され、採用が決定されました。その後、本間と面会した杉田は、「稲田弟彦」を思い出したようですが、採用を覆すことはありませんでした。

注2)渋谷五郎「本間乙彦君を偲びて」(『建築と社会』1937年9月号)。渋          谷の本間に関する記述は、同回想による。

■教諭ではなかった■
 関根要太郎の回想(注3) 関根が、後年杉田校長に、在学中に杉田からにらまれた稲田が立派に先生として勤まり、「然も生徒から絶大の信望がある」との話をしたところ、それが本間乙彦だとわかり、「あのさんざん手を焼いた稲田乙彦と同一人であることを知って、遂に彼の狭量は君を馘首したと云ふことを聞き及んで、・・大いに心に詫びて居た」と回想していますが、事実は少し異なるようです。
 本間は、教諭ではなく講師採用でした。当時、教諭の辞令は府庁から、講師は市役所から発行されたため、府の辞令は現在の都島工業高校の事務にも記録されていないのではないか、との教示を受けました(注4)。

 大正13年当時の教員採用や講師から教諭への任用替えの詳細は不詳ですが、すでに東京高工に教員養成所があったことを考えると、渋谷のような教員養成所卒業生に教員免許が付与され、その取得者が教諭採用されたのではないかと思われます。建築科卒業の本間は、教員免許を取得していなかった可能性があります。
また、本間の勤務期間が、大正13年4月から同15年3月との指摘から(前掲注4)、講師の期限は2年で、延長が可能であったのかも知れません。とすると、杉田校長の「狭量は君を馘首した」のは関根の思い違いで、期限は延長されたのですが、次の2年後は延長されなかった可能性もありますので、大正15年3月以降の状況をしっかり見る必要があります。

注3)関根要太郎「本間乙彦君の追憶」(第113回表2)。
注4)元建築科教員篠原太郎書翰。同氏は大正11年4月着任(前掲注2)『創            立百周年記念都工のあゆみ』)

●着任●
 本間は、大正13年3月、大阪市立工業学校に着任します。同校は、明治41年(1908)4月、高等小学校卒業を入学資格とする4年制の市立大阪工業学校(以下、市工)として大阪市北区牛丸町(当時)に開校しました(図2)。北東部には、府立北野中学校(現大阪府立北野高校、淀川区)、梅花高等女学校(現梅花中学・高校、豊中市)が隣接していました(図3、注5)。

余談 これらの3校はのちに、現校地に移転しますが、その内、梅花女学校の移転先は、豊中中学校(現大阪府立豊中高校)の南部に位置し、阪急豊中駅からの通学のさいには、両校に至る「幅十間の道路」(約18m)の「北側は豊中生、南側は梅花女学生」と、使用区分がなされていたそうです(注6)。「男女席を同じうせず」の時代で当然のことなのですが、思わず「そこまでやるか!」と、恐れ入りました。

図2 市立大阪工業学校
図3 大阪市立工業学校の位置

 市工は、大正9年4月大阪市立工業学校と改称され、大正14年12月に大阪市都島区善源寺町(現校地)に移転し、同15年4月、大阪市立都島工業学校(以下、都工)と改称されて6年制の工業学校となりますので、渋谷が教員を探していたのは、4年制の市工が6年制の都工に移行するための準備であったと思われます(注7)。その後、都工は、昭和23年4月に大阪市立都島工業高校(現大阪府立都島工業高校)となり現在に至っています(注8)。

注5)大阪市街図(1914年2月25日発行)を転載・加工。
注6)西山夘三『大正の中学生』(筑摩書房、1992年)。
注7) 都工については、第6回、第33~36回参照。
注8)前掲注1)『創立百周年記念都工のあゆみ』。大阪府立都島工業高校H             P。

●都工建築科の教育方針●
 建築科では、「設計製図」を最重要科目と位置づけていました(注9)。その内容は、第1学年図案(模写・創作:延111時間)、第2学年デッサン(建築各部のオーナメントをモデルとした鉛筆画:延74時間)、第3学年製図(文字・線の練習、木造建築の詳細部とクラシックオーダーの各部裝飾模写:延222時間)、第4学年製図(和洋建築構造の詳細図模写:延296時間)で、最初の4年間で「設計製図」の基本を学びます。

 その後、第5学年製図(1学期は、洋式門・塀の設計、台所・浴室などの設計、敷地・建坪・生活程度を限定した洋式住宅の設計、夏休みに、和式門塀・寺社などの模写、2学期は、1学期の課題と同一内容で和式住宅の設計、3学期は、第3学年で行ったオーダーの模写をもとにオーダー全般の設計:延407時間)、第6学年製図(1学期は、オーダーを用いた小銀行の設計と商店の正面意匠図、夏休みに、卒業計画の予定作成、2学期は、卒業計画の完成、3学期は、1学期に行った小銀行の詳細図の完成、積算・出願の手続きなどの演習:延べ518時間)など、6年間に延べ1628時間の「設計製図」を行なっています。

注9)『卒業設計図集』(1931年3月)に掲載された建築科長渋谷五郎の                 「序言」。

■勤務状況■
●授業●
 本間の授業の一端を、中野順次郎の回想などからみてみましょう(注10)。設計製図 中野は、「設計製図」と「西洋建築史」を担当していました。昭和3年5月頃、本間が銀行設計の外観スケッチの指導のさい、「4B位の軟らかい線でたちどころに正面図が出来て、柱割りとかデコレーションの感じが流れる様に描けるので、生徒の方も不思議な顔をして、先生の手先をみつめていたが」、本間は、「こんな風にやったらどうだい」と、生徒にスケッチを渡しながら、次の生徒の指導にあたったのをみていて、感心しています。中野は、設計に興味があったことから、スケッチの上手な本間の指導に注目していたのでしょう。

 既述の課題内容から、この授業は、6年生の1学期の「設計製図」で、課題は「オーダーを用いた小銀行の設計」と分かります。図4・5はその作品例、図6は、3学期の課題「1学期に行った小銀行の詳細図」の作品例(注11)です。

図4 小銀行の設計(立面図)
図5 小銀行の設計(断面図)
図6 小銀行の設計(詳細図)

 提出日には、「本間先生の批評を受ける」のですが、ある生徒作品の批評が「相当キツかった」ようで、「先生悪いところ許りで無く良いところも指摘して下さい」という生徒に対し、「悪いところが多いから、教えてゐるでは無いか、良いところがあれば遠慮なく云ふよ」と返したのを、中野は、「本間氏には少しも飾らない愉快なところがあった」と評しています。

 この回想から、6年生の「設計製図」は2人(本間・中野)で担当しており、スケッチの指導や作品の批評から、本間が主担、中野が副担と思われます。西洋建築史 本間に「西洋建築史」を習った生徒の一人に、川島宙次(昭和6年3月卒業)がいます。川島は、都工卒業後、大林組に勤務の傍ら、民家の研究を行い、日本民俗建築学会理事などを勤めた、著名な民家研究者です。その川島の著書(注12)の案内パンフレットに、「都島工業高校(ママ)建築科在学中に本間乙彦より西洋建築史を学び、民家に興味を覚え、以来日本全国をたどり民家の記録、研究を重ねる。」とあり、本間が川島を民家研究に導いたことが分かります。

 授業では、多くの図版を用いていたようで、本間の「西洋建築史」を引き継いだ中野は、「今でも本間氏のスクラップして呉たプレートを、生徒と共に使はせて貰つてゐる」と、感謝しています。

注10)中野順次郎「本間乙彦氏の思出」(第113回表2)。授業関連の記述               は、同回想による。中野は、昭和3年4月都工赴任。東京帝室博物館コ             ンペ(昭和6年)に佳作入選(後掲注14)『建築設計競技』)。経歴             などは第65回参照。
注11)図4~6は、『建築設計優秀作品図集』(大阪市立都島工業学校青甍会             編、修文館、1940年)より転載。
注12)川島宙次『日本民家デザイン集成』(日本図書センター、2011年)。

●自己研鑽●
満州停車場設計案 図面の左下隅に、「満州停車場案・大正十四年秋・本間乙彦作」と記された透視図が残されています(図7)。

図7 満州駅停車場案(本間乙彦)

 「満州駅停車場案」ということから、満州に建つ駅舎の設計コンクール(コンペ)応募案と思われますが、詳細は不明です。ちなみに、満州の首都新京(現長春)駅舎は、大正3年5月に竣工(注13)、「大連駅本家」コンペは、大正13年7月に締切られています(注14)。
 図8の立面構成とアングルが、「大連駅本家」1等入選案(小林良治)と似ています(図8、注15)。もっとも、駅舎の配置があらかじめ示されているので、それに合わせると、立面の構成は似てくると思われますが・・。

図8 大連駅舎本家コンペ1等入選案

 とすると、図7は、「大連駅本家」の可能性がありますが、年記が合わないことから、①応募締切に間に合わず、後日完成させた。②応募課題の条件にのっとり、後日作成された習作。③生徒の「卒業計画」の課題に「満州に建つ駅舎」を掲げ、作品例として作成したことなどが推測されます。正面のパラボラアーチによる壁面構成、隅角部のアール・デコの装飾など、斬新さが窺えます。
英語 学校では大変勉強したようで、中野は、図書室の、「英文原書の一寸した頁に、本間氏がかきこんだらしい鉛筆の訳」をよくみうけたそうです。ということは、中野も同様に、西洋建築史の勉強のために、「英文原書」を読んでいたのでしょう。その勉強の成果の一つが、ジョンベルチャー『建築の見方』(図9、中村盛文堂、1926年)と推測されます。

図9 『建築の見方』(本間乙彦訳)

注13)越沢明『満州国の首都計画』(日本経済評論社、1988年)。
注14)近江榮『建築設計競技』(鹿島出版会、1986年)。
注15)『大連駅本家検証設計当選図案帖』(満州建築協会、1925年)より               転載。

■閑話休題■
 教員時代の本間は、教諭ではなく、講師でした。当時の教諭と講師の待遇の違いは不詳ですが、筆者が期限付講師(2年間)を勤めた時は、授業担当時間数や校務分掌は教諭と同等、給料は、教諭は2等級、講師は実習助手と同等の3等級、期限の延長はなく、2年で終了しました。ただ、その当時の生徒の何人かとは、現在も付き合いがあり、楽しい2年間でした。

 本間の勤務期間については、4年か2年か気になりますが、この点も含めて、次回から、本間の設計活動をみていきます。

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