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建築家本間乙彦の仕事⑤-地域のお宝さがし-117

今回は、建築家本間乙彦の教員の退職時期と設計活動をみます。

■都島工業学校退職■
 在阪時代の「公式の略歴」(第115回表1-C)によると、本間は昭和4(1929)年まで、大阪市立都島工業学校(以下、都工)建築科教諭として勤務、同年から建築設計事務所(以下、事務所)経営とありますが、学年暦から、事務所の経営は昭和4年4月以降と考えられます。

 本間の事務所設立の動機は、阪口芳三郎(注1)と、「大同ビルに工材社を事務所として建築設計の業務」を始めたいといもうので、本間が、「都島の『ガッチリ』した校風にあきたらぬものを感じて居た」と察した渋谷五郎は、強いて止めなかったといいます(注2)。しかし、本間の「四ヶ年」の勤務状況が、「皆生徒指導上有益な仕事ばかりで」、いつまでも勤めてもらいたいと思っていたのに、どうしたのでしょう。

注1)阪口は、本間の同級生(東京高工 大正3[1914]年7月卒業)。
注2)渋谷五郎「本間乙彦君を偲びて」(『建築と社会』1937年9月号)。本           間の関する記述は、同回想による。

●工材社●
 本間が事務所を始めようとした工材社は、昭和4年9月に確認されます(図1、注3)。

図1 工材社広告

 「長尾薫」(東京高工 明治29[1896]年卒業生)は、大阪府立職工学校(現大阪府立西野田工科高校)の初代校長(明治40年11月~大正5年9月)です(注4)。長尾が、校長退職後に工材社を起業したかは不詳ですが、阪口は先輩長尾の下で働いていたと思われます。

注3)『建築と社会』1929年9月。
注4)『創立百周年・定時制併置六十周年記念誌』(大阪府立西野田工科高               校、2007年)。

■本間乙彦事務所■
●事務所開設●
 本間事務所の広告が、昭和2年4月に確認されます(図2、注5)。

図2 本間乙彦事務所広告

 図2の下部には、「西区土佐堀一丁目、大同ビル735号室、電話土佐堀5089」とあり、工材社と同じことから、工材社に間借りをしたと判断されます。それが、同年11月号の広告では、電話番号だけが「土佐堀4073」に変更されています。このことから、工材社が同年11月以前に他所へ移転したため、本間が同室を自身の事務所とし、専用の電話を設置したと考えられます。さらに、昭和3年4月号(図3)では「土佐堀4343-4345」となっていますが、これは、加入者の増加による変更と推察されます。

図3 本間乙彦事務所広告

 図2・3の体裁は概ね共通していますが、後者では左上部に住宅の図が入り、建坪当たりの金額が示され、右側には建築と装飾に関する相談への対応、「設計報酬」欄には、「基本設計」・「本設計」・「装飾及家具設計」の金額が明示されています。また、本間の肩書きが、図3では「建築士」・「装飾士」となっていて、「装飾及家具設計」、つまりインテリアデザインも仕事の範疇に入れていたことが分かります。また、両図から、都工在職中の昭和2年4月以前に事務所を開設し、紙面の内容が詳しくなる、昭和3年4月頃から本格的な設計活動を始めたものと思われます。

 とすると、本間の退職の理由は、渋谷がいう「校風」云々ではなく、渋谷から、4年目以降の講師期限の延長が不可能であることを聞かされ、事務所の開設を決意したと思われます。渋谷は、本間への援助として、設計の仕事を依頼(芝川ビルなど)したのでしょう。それが、渋谷の、「本校に居る間に・・芝川ビルの設計を手伝つてもらつて・・その残務を事務所でやつてもらった」との回想と思われます。この時期は、芝川ビルの起工・竣工時期から、昭和元年夏までのことと考えられます。本間は、昭和4年3月に都工を退職しますが、最後の昭和3年度は、現在でいう非常勤講師と思われます。

 中野順次郎は、本間に対し、「趣味に活きたところが目立つてゐるけれども、どこか学者気質のある本当に真面目な人・・芸術家にしても多分に学究的のところがあって」(注6)と、その早い死を惜しんでいます。本間の教員生活は5年という短期間でしたが、生徒や教員に大きな刺激と影響を与えたようです。

●仕事●
事務所開設準備中ならびに開設初期の本間の仕事を紹介します。
芝川ビル(図4~6) 芝川ビルは、渋谷五郎に設計の依頼があり、大正15年6月16日起工、昭和2年7月1日に竣工しました(注7)。

図4 芝川ビル外観
図5 芝川ビル階段手すり
図6 芝川ビル屋上

 「工事概要」(前掲注7)によると、「基本計画並構造設計」が渋谷、「意匠設計」が本間となっています。意匠の様式は、「大体において近世式・・装飾的細部は・・マヤ及インカの芸術から暗示された」としており、西洋建築史に詳しい本間が、概ね近世式によりながら、外観の基壇部(図4)や内部の階段の手すりに(図5)に豊かな装飾を施していますが、一方、屋上集会室の外部は、アーケードとアール・デコ風の意匠で構成されており(図6)、外観・内部ともに変化に富んだ空間が創成されています。

 しかし、本間の仕事があくまで渋谷の手伝いであったことは、棟札に記された設計者が「渋谷五郎」だけであることからも窺えます。また、芝川ビル設計の「残務を事務所でやつてもらったりした。」との回想から、本間は大正15年当初から芝川ビルの意匠設計を行ったものと思われます(注8)。なお、芝川ビルは、平成18年(2006)10月に登録文化財に登録されています(注9)。

注7)「芝川ビルディング新築工事概要」(『建築と社会』1928年1月号)。
注8)本間は、この頃から事務所開設の準備をはじめたと思われる。
注9)「国指定文化財等データベース」。

リフォーム 本間は、東京からの転居後、服部(現大阪府豊中市)の農家の借家に住んでいました(注10)。引越した際、家賃が安い分、水道・ガスは無く、不潔な台所には北側に小窓が一つ、天井は一面に蜘蛛の巣がはり、煉瓦の竈があるのみで(図7)、細君は大変落胆していたといいます(注11)。

図7 改造前(ビフォー)の台所

 本間は、住宅の中で最も明るく衛生的で、夏は涼しく冬は暖かくなければならない台所が、ここでは、一番暗く汚い風通しの悪い位置にあり、「使ひ勝手や進歩した設備を考慮に入れるでもなく、無ければならないから存在して居る許り」と、現状を分析し、「何といつても文化生活は台所から」との結論に至ります。そこで本間による大改造が始まります(図8)。

図8 改造後(アフター)の台所

 改造のポイントは、①竈の上端に板をのせて調理台とし(図8イ)、その前の一段低い焚き口の上端にも板をのせて棚とする。そして両者の前面と側面を板で包み、調理台上部に棚を設ける。②調理台の右側は、一段下げて既製品の流し台(ロ)、さらに一段下げて清水用のバケツ台を置き(ハ)、正面の壁面3尺角のガラス障子をはめ込み、棚を設ける。③調理台の左側には1.5尺程度の高さの棚を作り、直角に左の壁面まで延長し、七輪を置いた煮炊き台(ニ)や大きなビンの置き場とし、その上に食器棚を取り付けた。ガスではなく七輪をおいた理由を、「夫婦二人切りなので、此場合木炭を使用するのが万事に経済的だった」と述べています。

 要は、棚を設けて空間を立体的に使う、物の置き場をまとめる、ガラス障子をはめ込み全体を明るくするなど、現代のリフォームでも用いられる手法です。また、土間にすのこを敷いたのは、炊事仕事での足の疲労や保温などを考えてのことと思われますが、この仕事だけは大工に依頼しています。

注10)鶴丸梅太郎「酒友本間君を憶ふ」(第113回表2)に、「服部に住ま               れるようになって・・大きな門を入つた確か右側の一戸を借られてゐ             る頃」とある。
注11)本間乙彦「素人でも台所の改造が出来る」(『住』昭和2年10月                     号)。台所改造に関する記述は、同論考による。同文では、この改造             を、「往年の大震災で・・大阪に逃げてきた建築家の話」としており、             大阪転居時にこの借家に入居したと考えられる。図7・8は同論考より            転載。

漂流船良栄丸遭難記念碑案 良栄丸遭難とは、和歌山県西牟婁郡和深村(現串本町和深)船籍の漁船良栄丸が、大正15年12月12日、千葉県銚子沖での操業中に、機関の損傷により約11ヶ月間漂流し、昭和2年10月30日、アメリカワシントン州沿岸に漂着した事故で、その間、12人の乗組員は全員死亡していました。昭和3年8月に建立された「良栄丸遭難之碑」が、串本町に現存しています(図9、注14)。

図9 良栄丸遭難之碑
図10 漂流船良栄丸遭難記念碑案(本間乙彦)

 この碑に関する、「漂流船良栄丸遭難記念碑・昭和二年十二月・建築士本間乙彦案」と記された、図面が残されています(図10)。この図面は、碑の設計案募集に対する応募案と思われますが、詳細は不明です。当時、本間は都工に勤務をしていますから、冬休み期間中に作成したと推測されますが、「建築士本間乙彦案」と記載していることからも、本間事務所の存在が窺われます。

 本間案は、絶壁の頂部に位置し、流線形の台座の中央部に操舵室にみたてた碑石が配され、その上部にマストが設けられており、遠方の船からもよく見えるデザインです。

注14)ウィキペディア「良栄丸遭難事故」。ユーチューブ「良栄丸遭難記録             ①」。図10は、後者の動画をスクリーンショットし、加工・転載。

■閑話休題■
 これまで、「公式の略歴」(第113回表1)をもとに、友人の回想(第113回表2)から、本間の在京時代や在阪時代の経歴(仕事)などをみてきましたが、これは、時系列に沿って検証した筆者の作業によるものです。その結果、表1に記載がない事項や相違なども判明しました。それらを以下に示します。相違の理由は不明ですが、特に、教員時代の本間を「教諭」としたのは、渋谷の本間に対する「餞(はなむけ)」であったのかも知れません。

次回から、筆者が見た、海外の建築を紹介します。

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