見出し画像

建築家本間乙彦の仕事①-地域のお宝さがし-113

 建築家本間乙彦については、まち歩きマップ「大阪都心の社寺めぐり」(注1)で、肖像・略歴・作品の一部を紹介し、第3回でも少しふれました。本間は、雑誌『住宅』の編集などで知られていますが、早逝されたため不明な点が多く、改めて本間の経歴や活動について紹介します。

注1)企画編集:植松建築事務所

■本間乙彦の経歴■
 本間乙彦(図1、以下、本間)は、明治25年(1892)2月24日、本間貞観の五男(「弟彦」おとひこ)として、兵庫県龍野町に出生しました。

図1 本間乙彦

 本間の略歴は、追悼文集『忍び草』に、以下のようにあり(表1)、これが「公式の略歴」といえるものです(注2)。

表1

 表1から、本間の略歴は、大きく、在京時代(東京)と在阪時代(大阪)に分けることができます。前者では、東京高等工業学校(以下、東京高工、現東京工業大学)入学以前と在学中、卒業後の活動がありますが、同表ではそれらの記載がありません。後者では、図案店自営、教員、本間事務所・『住宅』編集(事務所時代)などの活動がみられます。
 表2に、『忍び草』の寄稿者を掲げます。寄稿者10名のうち、建築関係者は、東京高工が6名、工手学校が1名、左端は掲載順序です。友人などの回想から、本間の活動などを探っていきます。

表2

注2)本間に関する記述で、断らない場合は『忍び草』による。図1は同書より転載。キャプションに、「昭和十年B.K.にて撮影」とある。「B.K.」は大阪放送局(NHK)。

■東京高工在学中の本間■
 本間は、明治44年9月に東京高工に入学し、大正3年(1914)7月に卒業していますから(注3)、表1の3月卒業は誤記です。生徒時代などの本間の様相を、渋谷五郎・大谷木廣・関根要太郎・蔵田周忠の回想から見てみましょう。

注3)『冬夏会会員名簿』(2008年)。入学年は、卒業年より類推した。

●意匠図案(デザイン)の才能●
 本間は、在学中からデザインの才能に優れていました。1学年上級の渋谷(注4)は、製図室で4歳年下の本間に出会っていますが、「意匠図案に特別の手腕があって、・・大谷木廣君と共に其の技能の点では敬服させられて居た」と、大谷木(注5)とともに、本間の手腕を高く評価しています。
 渋谷は、当時、工業教員養成所の生徒で、本間が、「建築製図室へ一年下級に入って来た」と回想しています。また、大谷木は、大正4年の卒業ですので、下級生と思われます。製図室の様子を見ると(図2)、手前の制服姿の生徒集団と奥との間にネクタイ姿の教員が見えます。また、左奥にも生徒の集団が見えることから、同一時間帯に異なる学年の授業が行われていたようで、渋谷は、その際に本間や大谷木の図面を見ていたのでしょう。

図2 東京高工製図室(『東京工業大学百年史』より転載)

 大谷木は、本間について、図面は上手で、モダンジャーマンやネオゴシックスタイルが好きで、フリーもうまかったと評するとともに、優れた鉛筆画(図3、注6)がみられなくなることを惜しんでいます。

図3 鉛筆画の例

 大正2年9月、本間のクラスに関根要太郎が専科生として入学し、年下の本間と同級生になります(図4)(注7)。

図4 関根要太郎

 関根は、三橋事務所での実務経験があることから、本間が、図面の提出期限まで遊んでいても、「何時も二三日で完全に立派なデザインを完成」させていることに対し、「天才・・鬼才・・神技の然らしむ処」と絶賛する一方で、服装などの「自由さ」にも驚いたものと思われます。そんな、自由奔放な本間を、関根は、三橋事務所時代の後輩で、引っ込み思案を自認する蔵田周忠(注8)に紹介します。

注4)渋谷五郎、明治21年生。大正3年3月東京高工工業教員養成所卒業後、           和歌山県立工業学校教諭(現和歌山県立和歌山工業高校)、同7年3月             大阪市立工業学校教諭(現大阪府立都島工業高校)。渋谷は、本間の             回想「本間乙彦君を偲びて」(『建築と社会』1937年9月号)のなか             で、東京高工の校風を「堅いタイプ」と評し、本間のような、芸術家             肌の連中とは、「趣を異にしていた」と、当時の雰囲気を述べてい                 る。なお、渋谷は、本間が後年市立工業学校へ奉職した際の建築科                 長。大正10年に『日本建築』(上下巻)を出版。同書は、『新訂日本             建築』(学芸出版社)として、現在も刊行されている。
注5)大谷木廣、明治24年生。大正4年7月卒業後、大倉組土木(現大成建               設)入社、大正10年白鳳社工務所を自営(能村彩子他「大正10年創設             の白鳳社工務所の沿革と技師の動向について」日本建築学会大会梗概             集1998年9月)。
注6)図3は、『忍び草』に掲載された大西邸(昭和12年7月、設計:本間)           で、現存している。
注7)関根要太郎、明治22年生。明治43年三橋四郎建築事務所入所(以下、           三橋事務所)。大正3年7月に東京高工修了(ウィキペディア「関根要             太郎」)。「専科」については不詳であるが、在学年が1年であること           から、「聴講生」もしくは「科目受講生」と類似の制度と推察され                 る。図4は、『日本の建築家』(『新建築』1981年12月臨時増刊)よ             り転載。
注8)蔵田周忠、明治28年生。大正2年工手学校卒業。三橋事務所、曾禰・中           條建築事務所、関根建築事務所を経て、昭和6年蔵田周忠建築事務所設           立、同7年より武蔵高工(元武蔵工業大学、現東京都市大学)教授(ウ           ィキペディア「蔵田周忠」)。

●入学以前の本間の風貌●
 本間の顔を見た蔵田は、「呉にゐた事がありますか」と聞いています。呉に居住していた蔵田は、呉市における、東京での暁星や学習院のような学校に通学していた稲田(本間)を覚えていたのです。蔵田が本間を見た当時、本間は稲田家の養子となり、呉市に居住し、「稲田弟彦」として、地元の中学校(旧制)に通学していたのです。本間家(乙彦)と稲田家の養子縁組の届けは、明治44年10月11日に出されていますが(注9)、明治40年頃には呉市に移っていたようです。縁組は、大正7年6月29日に解消されますので、卒業生名簿には「稲田弟彦」とあります。本間姓に戻った際に、「乙彦」と自称したと思われます。
 蔵田は、呉市当時の本間を、「今から三十何年かの昔として既にモダンボーイ」であったと回顧しています。この回想文は、昭和12年(1937)8月に脱稿していますので、逝去の通知後、すぐに起草されたと考えられることから、蔵田が回想した本間は、30数年前、つまり、明治40年頃に中学生であった本間の服装と判断されます。「モダンボーイ」(モボ)は、大正中期から昭和初期(1920年代)の、欧米で流行したファッションなどを取り入れた風俗で、「モダン」であることを特徴としていましたから(注10)、蔵田が呉市で見た本間の風貌は、東京よりも早い流行の最先端のファッションであったのでしょう。

注9)本間の縁者、石原元吉のメモによる。
注10)「ウィキペディア モボ・モガ」

●在学中の本間の風貌●
 東京高工での本間の風貌を、蔵田は、「純然たる上野の美校(東京美術学校、現東京芸術大学:筆者注)系タイプ」と評しています。また、大谷木は、ズボンに折り目がピンとついたスマートな服裝で、「毛髪も・・肩位迄延して」モガのような、「パーマネント、ウエーブ式」にやっていたといいます。蔵田は、呉市時代の本間をモボ、大谷木は、東京高工の本間の服装をモガのようと評していますが、東京高工の制服に、折り目のついたズボンをはいた本間の服装は、スマートで目立ったようです。ただし、モガの毛髪はショートカットで、パーマは昭和になってからの流行のようです。
実際、旧制高校生には、終戦間際でさえ長髪の生徒がかなりいたようで、その形容から、「雄ライオン・雌ライオン」と呼ばれた生徒のいたことが紹介されています(注11)。これより30年も早い持期に、肩まで届くような長髪にパーマを施し、折り目のついたズボンをはいた制服姿の本間の風貌を、図2の生徒集団からイメージできないのは、筆者の想像力のなさでしょうか。
 一方、本間の服装や髪形が、東京高工の「堅いタイプ」の校風になじまないことを、年上で実務上がりの同級生関根は、「学校当局からは異端者視される程、君には蔵前と云ふ処は場異ひであり、不思議な位い特異な存在」と、芸術家肌の後輩を心配していました。ところが、関根は、「卒業も間近い大正三年の春」に、「美しい黒髪も、プツリ切られて平凡な稲田君を見た」のです。その原因は、当時鬼舎監と生徒に怖がられていた、「杉田と云ふ生徒監」が、「黒髪と卒業証書を取替へる約束か、妥協が成立した結果であった」と、本間と杉田の確執を伝えています。
 本間・関根の卒業は、大正3年7月ですので、関根が蔵田に本間を紹介した時期は、関根が専科に入学した大正2年以降、卒業以前(大正3年5月頃)と推察されます。関根は、卒業後、会社勤務を経て、大正9年、関根建築事務所を設立します。一方、蔵田は、大正11年12月に関根事務所に入所します。三橋事務所での出会いを契機に、交流が続いていることが分かります。本間や蔵田への対応から、「年下の後輩」を心配する、関根の優しさがうかがえます。

注11)北杜夫『どくとるマンボウ青春記』(新潮文庫、2006年)。北は、               昭和20年8月1日に、旧制松本高校に入学している。

■閑話休題■

 本間の服装や頭髪などが、当時流行の最先端にあったことが窺われますが、それが東京高工の校風あわずに叱責されるなど、回想ならではの、本間の一面を見ることができます。一方で、回想の内容は、思い込みや年代の勘違いなどもあり、年代の推定など難しい点が多くありますが、周辺の事象から検証して行きます。

次回は、東京高工卒業後の本間の活動を紹介します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?